人口1050人の小島で繰り広げられた激戦

ここで硫黄島の戦いを簡単に紹介しておきたい。

戦前、この島には1050人ほどの日本人が住んでいた。硫黄の採掘やサトウキビの栽培、沿岸漁業などに従事していたという。島自体は東西に8.3キロ、南北には4キロほど、面積にすれば約24平方キロだ。現在、自衛隊の基地が置かれているが、一般の人の立ち入りはできない。

この小さな静かな島が、なぜ激戦地となったのか。戦争末期、アメリカ軍と日本軍の双方にとって極めて重要な戦略拠点となったからだろう。

アメリカ軍は1944年7月から8月にかけて、マリアナ諸島を制圧して日本軍を駆逐した。そして、すぐにグアム島やサイパン島、テニアン島の飛行場の整備を開始し、配備させた新型重爆撃機B-29による日本全土への空襲を開始させている。マリアナ諸島から日本本土までの距離は、片道だけで2000キロ以上あった。中継基地として目をつけたのが硫黄島だった。

日本軍にとっても硫黄島に航空部隊を配備することで、マリアナ諸島へ攻撃を仕掛けることができた。加えて、マリアナ諸島から出撃したB-29は硫黄島周辺の空域を通過するため、早期に発見すれば迎撃することができる。その態勢を整えるうえでも重要な拠点だった。

錆びた航空機エンジン部品
写真=iStock.com/Matthew Troke
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灼熱と飢えに苦しみながら坑道を掘り続け…

日本軍は1944年6月の段階で硫黄島の防衛をさらに固めることを決めた。壮健な若い男性を除いた島民を疎開させたうえで、硫黄島の全面的な要塞化に着手する。

採用された作戦は内陸部にアメリカ軍を誘い、持久戦やゲリラ戦に持ち込むというものだ。そのために、出入り口が1000ヶ所にもおよぶ地下坑道を築いた。

ときに60℃にも達する地熱とすさまじい飢えに苦しめられ、わずかな雨水と硫黄臭を発する井戸水をすすりながら、兵隊たちは手作業で人工の坑道を掘り続けた。天然の洞窟を合わせた地下坑道の全長は18キロに達した。

硫黄島へ上陸し、内陸部へ前進するアメリカ軍に対し、日本兵たちは、張り巡らされた坑道のなかで身を潜めながら機会をうかがって奇襲攻撃を重ねた。

アメリカ軍がとった対抗策もすさまじい。日本軍が潜む坑道を火炎放射器や火炎砲戦車で焼き払い、火炎が届かない場合には手榴弾や催涙ガス弾を投げ込む。流れ出てくる煙によって特定した出入り口を重機でふさぎ、日本軍の逃げ道を断つ。加えて坑道の上部に削岩機で開けた穴からガソリンや猛毒の黄燐を流し込んでは火を放っていった。

アメリカ軍は、硫黄島で開戦するにあたって、完全に占領するまでに必要な日数を「5日」と想定していた。上陸を開始したのは1945年2月19日、戦闘が終結したのは3月26日。36日目にしてようやく終結したのだった。