上皇上皇后両陛下は、太平洋戦争で激しい戦闘が行われた数々の島へ慰霊訪問を続けてきた。中でも沖縄県への訪問は11回におよぶ。元ニューヨーク・タイムズ東京支局長のマーティン・ファクラーさんは「慰霊の旅は、戦争の反省から生まれた『現代にふさわしい皇室の在り方』を体現するものではないか」という――。

※本稿は、マーティン・ファクラー『日本人の愛国』(角川新書)の一部を再編集したものです。

国立沖縄戦没者墓苑を訪問される天皇皇后両陛下(当時)=2018年3月27日
写真=EPA/時事通信フォト
国立沖縄戦没者墓苑を訪問される天皇皇后両陛下(当時)=2018年3月27日

非常時には国民の命よりも国が優先される

日本兵の戦死者は、日清戦争の約1万3800人から、軍事力が増強された日露戦争では約8万5000人へとはね上がっている。

国と政府、そして国民が一緒くたになり、国民の考え方や価値観、戦争に代表される非常時には国民の尊い命よりも国が上位にくる図式を示したのが、前述したように大日本帝国憲法だった。第1条で天皇主権が定められ、1890年11月29日に施行された。

大日本帝国憲法は、第28条で「信教ノ自由」を定めていた。国家神道については、仏教やキリスト教よりも上位に置くことは大日本帝国憲法とは矛盾しない、とする公式見解が存在し続けた。国家神道は、明治維新後に明治政府によって形成・振興され、国民に天皇崇拝と神社信仰を義務づけた国民宗教的な性格をもっていたにもかかわらず、である。

また教育勅語も家族的国家観に基づく忠君愛国主義と儒教的な道徳を主旨としており、国家神道の実質的な教典になった。

このように、大日本帝国憲法のもとで国家神道は、宗教と政治、そして教育を一体化させる役割を果たした。1931年の満洲事変から太平洋戦争の終戦に至る約15年間で、軍部は「天皇の軍隊」として独立した地位を与えられたが、徐々に神聖化されていった軍部が掲げた超国家主義的思想と聖戦思想のよりどころが、国家神道だった。

軍隊の神聖視が圧倒的な支持を集めるなかで、思想家やジャーナリストたちも主義主張を愛国主義へと転向させざるをえない状況に追い込まれていく。

非戦論を訴えれば処刑される時代

明治初期でいえば、ジャーナリストの徳富蘇峰があげられる。明治政府が掲げた国家主義や貴族主義に対抗する平民主義を訴え、後の総合雑誌の先駆けとなる「国民之友」を創刊した徳富は、日清戦争を境に考え方を180度転向。皇室中心の国家主義を奨励する、代表的な思想家として活動した。

大正から昭和にかけて自由主義の立場からファシズムへの批判活動を展開した、元新聞記者の長谷川如是閑も忘れてはならない。終戦後も日本を代表するジャーナリストとして、「民本主義」という明治憲法に合う形の民主主義の徹底と国際平和確立の重要性などを訴え続けた。しかし、第二次世界大戦に突入してからはリベラルな矛を収め、沈黙する期間が長かった。