「終戦を迎えたのは小学校の最後の年でした。この戦争による日本人の犠牲者は約310万人と言われています。前途に様々な夢を持って生きていた多くの人々が、若くして命を失ったことを思うと、本当に痛ましい限りです」

80歳の誕生日前会見で太平洋戦争に対してこう言葉を残している明仁天皇は2018年、天皇として臨んだ最後の誕生日会見で、18万8136人もの日本人が命を落とした地上戦の舞台と化した沖縄へこう言及した。

「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するよう努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」

「石ぐらい投げられてもいい」という覚悟だった

2人が初めて沖縄県を訪問したのは、皇太子時代の1975年7月。昭和天皇の名代としてであり、皇族では第二次世界大戦後で初めてのことだ。

沖縄
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本土を死守するうえでの捨て石にされた、という思いが戦争中から沖縄にはあった。1941年に「米国及英国ニ対スル宣戦ノ件」を出した昭和天皇の戦争責任を問う厳しい声が飛び交っていた。

明仁皇太子は当時、「石ぐらい投げられてもいい」と語っていたという。不測の事態が起こることも覚悟したうえでの訪問だったと考えられる。

実際、テロ未遂事件も発生している。糸満市内のひめゆりの塔を訪れて献花を捧げていたときに、付近の洞窟のなかに潜んでいた2人の過激派から火炎瓶を投げつけられたのだ。

火炎瓶は献花台を直撃して炎上したが、幸い2人に大きなけがはなく、犯人たちは現行犯で逮捕された。明仁皇太子は事件を非難するどころか、事件が起こった夜に「沖縄の苦難の歴史を思い、これからもこの地に心を寄せ続けていく」とする談話を発表。その後もスケジュールを変更することなく、慰霊の旅を続けた。

即位後に初めて行われた記者会見で、明仁天皇が言及した「現代にふさわしい皇室の在り方」とは、おそらくは初めて沖縄を訪れた1975年7月の延長に位置づけられていたのではないだろうか。

「天皇陛下、万歳」と身を投じた断崖に立ち…

1993年4月に歴代の天皇として初めて沖縄を訪れると、1994年2月に硫黄島、戦後50年の節目を迎えた95年の7月から8月にかけては、特に戦火が甚大だった長崎、広島、沖縄、東京都慰霊堂を訪ねる慰霊の旅を行った。

戦後60年の2005年の6月には、1944年6月から7月にかけて日本軍とアメリカ軍の戦闘が繰り広げられ、日本軍が全滅した北マリアナ諸島の中心、サイパン島を訪れている。

即位後から続けてきた慰霊の旅で外国の戦場を訪れるのは初めてだった。