来日した当初、私が、日本とアメリカで大きく違うと思ったところは、日本人が公共の場で愛国心をあまり見せないということだった。アメリカでは、毎日学校で国歌を歌ったり、国旗の前で直立したり、忠誠の誓いを言うこともある。メジャーリーグなどスポーツの試合の前にも国歌を歌う。

日本では、このような愛国心を見せる日常的な儀式をあまり見かけないように感じた。学校の卒業式で国歌を歌ったり、祝日に交番に国旗があがったりしているのを見るが、アメリカよりはるかに少ないと感じた。

国への愛情は「日本文化」に表れるようになった

一方で、日本に対しての愛情や誇りがなくなったわけではないことも感じていた。それは別の形で表現されていた。

マーティン・ファクラー『日本人の愛国』(角川新書)
マーティン・ファクラー『日本人の愛国』(角川新書)

その代表的な例は、文化論ではないだろうか。日本文化論というのは、日本に特色のある文化や社会制度があり、それが諸外国とは質的に異なっており、日本が世界の中でユニークで独特な国であることを強調するものである。日本ほど「自分たちが違うんだ」と主張する国はあまりないのではないか。アメリカにもアメリカ例外主義(American Exceptionalism)という似た考え方があるが、日本ほど広く共有されていない。

書店に行くと日本文化論についての本が非常に多くある。来日当初、それを見たときの驚きは今も鮮明に覚えている。日本の読者は、自国の伝統や社会、価値観などを褒める本を、果てしなく求めていたようだ。バブル時代だったということもあったが、日本人とユダヤ人の比較とか、日本人独特の心理学や美的感覚を紹介する本、「日本的経営」の強さを追求する本など、文化論の種類は豊富であった。

ボトムアップの愛国が育っていった

海外の著者にも同じような本を求めていたため、和訳された洋書で長年人気があったのはエズラ・ヴォーゲル氏の『ジャパン・アズ・ナンバーワン』だった。ちなみに、ニューヨークの書店には、アメリカ文化はこんなにユニークだぞ、という本はそれほど多くない。

当時の日本人は国に対して持つ自尊心を、国歌や軍隊と違う場所で満たしていたと言えるかもしれない。国歌や軍隊は疑っているが、日本の強みは社会や文化、商業など、庶民的なところにあると考えていたのではないか。国が上から押し付けたナショナリズムではなく、日本のいいところを国家と別の場所で探していたのだ。いってみれば下からの愛国で、これは決して悪いものではないと私は思う。

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