あきらめないことは思考停止の一種

このように、「ここらであきらめたほうがいいかもしれない」と判断できれば、冷静に考えることができるようになります。

たとえば資金があるうちに従業員に割増退職金を支払って円満に退職してもらったり、もっと家賃の安い事務所に引っ越したりなど、打てる手はいくつか残されます。

一方あきらめきれずに粘るのは、合理性よりも単に本人の意地の問題で、思考停止しているだけのことがあります。この先どうがんばっても業績が改善する見通しは立たないのに事業を継続することに執着してしまうと、それ以外の選択肢が見えなくなります。

継続することにしがみついている間にお金が尽きていき、お金がない焦りでさらに冷静さを失います。ズルズルと資金は減り、割増退職金を出す余裕もなく、引っ越し費用すら賄えなくなり、身動きがとれなくなります。

事態は悪化の一途をたどり、もはや選べる手段がなく、どうにもならない。そして最終的には「投げ出す」、つまり倒産や夜逃げです。

その結果、周囲に迷惑をかけ、どん底に陥るのは珍しいことではありません。

あきらめれば客観的になれますが、あきらめないと冷静さを失いやすいのです。

サンクコストを無視できる

また、意思決定においてサンクコスト(埋没費用)を無視できるというのも、富裕層が持つ「あきらめる力」の一つです。

たとえば冒頭で「ある飲食店経営者は、都心の家賃が高額な大箱の店舗を閉じ」という話を紹介しましたが、その店は高級店でしたから、内装造作には数千万円の初期投資がかかっているはずです。

普通なら「せっかくこんなにお金をかけたんだから」とあきらめにくいところですが、ここに費やしたお金はもう戻ってくることはないし、今後垂れ流すことになるであろう赤字を食い止めるためにもバッサリ捨てられる勇気があるということです。

これは難関国家資格の受験勉強を続ける人も同じく、「せっかくここまで勉強したんだから」とそれまでの努力をあきらめきれず、以降何年も勉強に費やし気づいたら社会に出るきっかけを失っていた、ということがあります。塾やお稽古事でもよくありますね。

そんな変化に苦痛や面倒くささを感じることもあります。

自分が信じていたことを変えるのは受け入れがたいという人もいるでしょう。自分の考えを曲げるのは屈辱的だと感じる人もいるでしょう。しかしそうやって変わらないのはラクな一方、現実逃避や思考停止と同義です。