無意味な「難しさ」に付き合ってはいけない

私は、大学で現代文の読解の指導もしているので、難しい評論文はこれまで浴びるほど読み倒してきました。その中でも、東大の入試問題には比較的、意味のある難しい文章が多かったように感じています。わざとらしい難しさではなく、丁寧に読めばレベルの高い主張をしているのが伝わってくるのです。

たくさん読んでいるうちに私は気づきました。無意味に難しい文章の書き手は、素人である一般読者を脅して、自分の地位を守ろうとしているのではないか、と。人は、わからない言葉をたたみかけられると、ちょっと脅されたように感じて萎縮します。そうやって読者を萎縮させておいて、優位な立ち位置から主張することで自分を強く見せようとしているわけです。

言い換えれば、無意味に難しい本の著者は、たいてい病気にかかっています。どんな病気かというと、難しく書かないとバカにされると思っている病、あるいは難しく書くことで自分の力を誇示したがる病です。

だから、意味のない難しさを持つ本が読めなくても、悲しむ必要はありません。むしろ著者を哀れむべきです。

「ああ、かわいそうに。物事を素直に言えず虚勢を張っている人たちなんだな」

そう思って、ちょっと距離を置けばよいのです。

海外の人文書が難しくなってしまう理由

前述したように、古今東西の名著には意味のある難しさがあります。では、こういった本は、どうして難しくなってしまうのか。理由は大きく二つに分かれます。一つは、原著を生み出した国や言語の特徴によるもの。そしてもう一つは、オリジナルな発見を披露しているから、というものです。

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例えば、イギリス人やアメリカ人が書いた文章は、比較的わかりやすい印象があります。イギリスは経験主義(理論よりも経験を重視する考え方)の傾向があるせいか、簡単な内容を持って回って理屈っぽく記述することがありません。他の言語で書かれた哲学書を英訳したものを読むと、むしろ原著よりも読みやすくなることがあります。

村上春樹さんは、ベストセラーを連発する世界的な作家でありながら、アメリカ文学作品の翻訳を多数手がけていることでも有名です。レイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』などの翻訳作品を読むと、いかにも「村上さんの文章だ」という感じがします。

村上さんが訳しているから、当然村上さんの文章には間違いないのですが、なんというか村上春樹の小説そのものみたいに思えるのです。私は村上さんの文体になじみがあるので、優れた比喩表現や、洗練された会話を楽しんでいるうちに、ぐいぐいと作品に引き込まれていきます。だから、チャンドラーが読みやすいのは村上さんのおかげということになります。