※本稿は、齋藤孝『難しい本をどう読むか』(草思社)の一部を再編集したものです。
難しさは「意味のない難しさ」と「意味のある難しさ」に分けられる
「難しい本」というときの難しさは、大きく二つのタイプに分類されます。一つは意味のある難しさであり、もう一つは意味のない難しさです。
意味のある難しさというのは、『存在と時間』や『ツァラトゥストラ』『資本論』といった、世界的な名著の難しさです。名著は歴史的に評価も定着していますし、全世界に届くような強いメッセージも込められています。
これらを読むことには大いに意義があるのだけれども、いざ読もうとすると独特なキーワードがあったり、テキストが分厚かったりしてなかなか手が出ません。こういった難しさと向き合い、読破しようとチャレンジすることは、人生の一つの大きな生きがいでもあります。
意味のある難しさを持った本が読みにくいのは、一つに自分の読解力や知識が不十分であることが挙げられます。いってみれば高くて美しい山に登るのに、体力や装備が足りていないようなもの。踏破するためには、それなりの準備が求められます。その代わり、一度読み解くことができれば感動も大きいですし、読めば読むほど味わいも深まります。
大学入試に出る評論文は「意味のない難しさ」
一方で、意味のない難しさは、ただ難しいことが目的であるかのような文章の難しさです。「大学入試の現代文で出題されるある種の評論文のような難しさ」と言えばわかりやすいでしょうか。
国語の入試問題では、文章に傍線が引かれ、「この部分が示す内容について、正しいのは次の選択肢のうちどれか」といった問題が出題されます。裏を返せば、誰もが一目瞭然で理解できる文章ではない、ということです。
実はかくいう私自身、難解な文章を書いていた時期があり、大学入試問題に拙文が使用される機会が多く、ある年度には出題数第一位になったことがあります。それを知って嬉しく思うどころか、反省したのを記憶しています。むしろ「大学入試に使われないような、もっと万人にわかりやすい文章を書こう」と決意したのです。