難しさは書き手が新しい知を手探り状態で開拓した証拠
村上さんの訳をガイドに『ロング・グッドバイ』を原著で読むと、かなりわかりやすく進めます。そして、英語で書かれた文章は、複雑な感情を表現する場合も、比較的明快なものが多いと感じます。
一方で、フランス語で書かれた文章には、特有の難しさを感じます。フランスには一種の難解病があって、きらびやかな形容と複雑な文体を好む傾向があります。タイトルからして、何を言っているのかわからない雰囲気が出ています。
ドイツはドイツで、体系立った力感のある記述に特徴があります。哲学書は、単純に文章量も多く、まともに向き合うと討ち死にしそうな予感がします。
哲学の分野では、こういったフランスやドイツの哲学を学んで日本に紹介する人が多かったせいで、翻訳文体もややこしくなった可能性はあるでしょう。
フランス語やドイツ語で書かれた哲学書が難しいというとき、翻訳が悪いせいだと思って原著を読むと、やはり原著もそれなりに難しいケースが多々あります(本当に翻訳が悪いこともありますが)。それは、書き手が新しい知を手探り状態で開拓した証拠でもあります。
敬意をもってこちらから歩み寄る姿勢が大切
書き手が思考の限界までチャレンジしている悪戦苦闘ぶりがそのまま文章に表れるので、のちの時代の私たちが読むと、難しく息苦しく感じられるわけです。
開拓者は、その先がどうなっているのかがわからないまま格闘を続けています。
「そんな岩盤をツルハシで砕かなくても、もっとこっちに通りやすい道があるのに……」
といえるのは、後の時代に生きているから。最初に開拓したルートが曲がりくねって起伏のある道になるのは、ある意味では当然なのです。
例えば、フッサールの文章が難しいのは、まさに彼が現象学の開拓者だからです。フッサールの文章は難解ですが、もし彼がいなかったらどうなったのかと考えれば、現象学は誕生せず、メルロー=ポンティも登場しなかったでしょう。そういった歴史的功績に鑑みれば、開拓者の文章が難しいのは仕方がないと受け入れ、敬意をもってこちらから歩み寄る姿勢が大切なのです。