人間関係のイザコザは2500年前も
ブッダとその弟子たちは、「僧伽」という集団を形成して修行に励んでいました。
しかし、農業や牧畜など集団内での生産活動は行っていなかったので、生きていくのに必要な最低限の物資は布施などによって支えられていました。王様や富豪たちから土地の寄進を受けたこともあります。施しを受ける中で、悩みごとの相談も受けていたのでしょう。
ブッダや弟子たちのまわりには、僧俗を問わず、さまざまな人たちが集まっていました。そうした中で、人間関係のトラブルもしばしば発生していたようです。
有名な逸話としては、美男子ゆえにそのモテっぷりが修行の妨げになったアーナンダや、教団の乗っ取りを画策したダイバダッタの話が挙げられます。
「仏説観無量寿経」というお経には、マガタ国(紀元前413〜395年)という国で起こった、親子間の争いの話が語られています。
シチュエーションが違うだけで、問題の本質は現代と何も変わっていません。
ブッダに直接教えを聞くことができた時代でもこんなトラブルが起こっていたくらいですから、たとえ仏の声でも、嫉妬や欲望に駆られた人間の耳には入らなかったということでしょう。
本当に必要なのは「気が合わない人」
では、実際のところ、ブッダは人間関係についてどのように考えていたのでしょうか。私がとくにシビれた一文を取り上げてみましょう。
尊い人と交れ。
『ウダーナヴァルガ』第25章3
シンプルですが、力強い言葉ですね。
きっとブッダも悪い友や卑しい人に苦労させられたことがあるのでしょう。そうでなければ、こんな実感のこもった言葉は出てきません。
さて、私はここに重要なポイントがあると思います。
それは、ブッダが「気の合う人とだけつるんでいればいい」とは言っていないことです。私たちは自分と気の合う人、つまり自分と似た意見を持つ人を肯定的に捉え、「善い人」と考えがちです。逆に、気の合わない人は「間違った人」として遠ざけ、その人自身に対しても否定的な見方をしてしまうところがあります。
しかし、自分自身の意見が必ずしも正しいとは限りません。あなたが無自覚のうちに、よこしまな考えを正しい判断だと考えていたとしたら、気の合う人もまた、よこしまな意見を持っている人になってしまいます。それならば、耳が痛くても正しい意見をしっかり言ってくれる人の話を聞く方がいい。
私たちは、物事を自分の都合のいいようにねじ曲げて捉えてしまうところがあります。ですから、実は「自分は正しい」と思っているときこそ、落ち着いて考えてみることが必要なのです。
油断して心に隙が生まれると、ブッダの言葉でさえ自己肯定や言い訳に利用しようとします。
気の合う人と過ごす時間は愉快ですし、何より楽でしょう。でも、多少うるさく感じても、あなたの本質をよく知っている友こそが、あなたに必要な気付きを与えてくれるのです。