想定外のお金に翻弄される「水屋の富」

それにしても、自己啓発書や成功法則本などがこれだけたくさん出ているのに、人々が救われていないのはなぜなんでしょう。

いや、そんなふうに思っているのは、そういう本ばかり読んでいる読者だけではありません。

もしかしたら日本全体がこの不況の最中、「一生懸命にやっているのになぜうまくいかないのか」という気持ちになってしまっているとも言えるのかもしれません。

一体どうしてなのでしょう?

ここで、「水屋の富」という落語をご案内します。

上水道が完備されていない頃の江戸時代の話です。水屋という商売がありました。毎日玉川や神田上水あたりから汲まれた水を天秤棒で担いでは売る仕事です。

ある一人暮らしの水屋は、「日々の貧乏暮らしはもう嫌だ。金持ちになりたい」とずっと考えていました。そんなある日、たまたま買った富くじで千両を当てます。

税金で二割引かれて残りの八百両をもらって、家に持ち帰り大喜びします。

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「これで安心して寝られる。商売も辞めて楽ができる!」と幸せをかみしめるのですが、はてさてその置き場所に頭を痛めることになります。

「泥棒が入ったらどうしよう。どこに隠そうか」と、頭をひねります。「押し入れも神棚も戸棚もみんなすぐに見つかってしまいそうだ。よし」と、悩んだ揚げ句、畳を一畳上げて根太板をはがし、縁の下の丸太に五寸釘を打ち込んで先を曲げ、袋に入れた八百両を引っかけることを思いつきます。

以降毎日仕事から帰ってきては竿を縁の下に伸ばし、その先端がカネの袋に当たるコツコツ音が無上の楽しみになってゆきます。

が、しばらくすると今度は、周囲を疑う日が始まるのです。

「今すれ違った奴は泥棒かもしれない。よくない目つきをしていた。俺が寝ている時にあいつが強盗に入ってきたらどうしよう。もし殺されたりなぞしたら」などというマイナスな思いばかりが強くなり、夜も眠れない日が続くようになります。

やがて、仕事上でもミスが続くようになるのですが、それでもくたくたになって戻って来ては竿を突っ込み、「コツコツ音」を楽しむのがルーティンになってゆきます。

コツコツコツコツ。

「ああ、よかった。今日もある」

ある日、水屋のそんな行為を目にした者がいました。前に住むやくざ者です。

「あの野郎、あそこに何か隠しているな」と踏んだその男は水屋の留守中に忍び込み、根太板をはがしてカネの袋を見つけ、喜び勇んで盗んで逃げてしまいます。

そうとは知らない水屋が、帰宅後いつものように竿で縁の下をかき回すのですが、コツコツしません。

「ま、まさか……」

根太をはがして調べてみると、カネの袋は盗まれていました。

「ああ、金が無い‼ ……よかった。今晩からゆっくり寝られるな」

いかがですか? すごいオチですよね。吟味して捉えてみましょう。

「他人軸」で生きていると幸せにはなれない

この落語は、「お金は人を幸せにしない」という短絡的なことを言っているのではないのです。聖書ならばきっと戒めの一例としてそのような解釈に持ってゆくのでしょうが、やはりそこが落語のすごいところなのです。

より冷静になって分析してみますと、八百両というのは、日銭家業の水屋の生活水準からすると、「想定外の金額」に相当するはずです。持ちつけないものを手に入れてしまった際の「不安感」のほうが、「想定外の金額」を手に入れた喜びを凌駕するものだよ、と、この落語は訴えているのではないでしょうか?

談志はよくサインを頼まれると、「幸福の基準を決めよ」と書きましたっけ。「幸福の基準が自分にある奴は幸せだ。夏場疲れて帰ってきても『一杯の冷えたビール』に喜びを感じられる奴こそが幸せなんだ。それは他人と比べるべきものではない。一日中こうやって茶碗のフタを見つめているだけで幸せな奴がいたら、かなわねえわな」とよく高座で言っていたものでした。

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おそらくこの水屋は、重たい天秤棒を担ぎながら、金持ちの家をまわり、「いいなあ、金持ちは楽ができて。俺も金持ちになりたいな」ときっと思ったはずです。

つまり、彼は恐らく幸福の基準を「他人」に置いていたのでしょう。価値基準が他人と比べてのカネにあったからこその不幸がこの落語の中心テーマなのでしょう。だからこそ大金を得た彼は、今度は「その金を失う不安」に襲われることになるのです。そして、そんな不安感や恐怖感の解消が「カネを盗まれること」だったという実に痛烈な皮肉がオチと共に鮮やかに描かれているからこの落語は令和の今でも輝きを失わないのではないでしょうか? 時代は変わっても人間は変わらないのです。