ファンを唖然とさせた最終2話

95年に放映されたテレビ版『新世紀エヴァンゲリオン』は、当時のアニメファンの心をつかんで一世を風靡ふうび。特に再放送は、大きく盛り上りました。

その最後の2話「第弐拾伍話」「最終話」では、ほとんどの人が驚愕、唖然としました。いろいろな謎が解かれるはずのエンディング。しかし、「人類補完計画」「ゼーレ」「使徒」などの謎に対する説明は一切なく、シンジの深層心理だけを描いた意味不明なシーンが連続していたのです。このラストに、ほとんどのファンは混乱し、賛否両論の大論争が起きました。

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私はこの最終2話を見て「なんてわかりやすいんだ。こんなにわかりやすく説明してしまっていいのか」と思いました。心理学的に見て、これほどわかりやすく、直接的な説明はないからです。

シンジは、なぜいつも父親の前で萎縮していたのか? 自分自身に価値を見いだせず、いつもネガティブにしか考えられなかったのはなぜか? 戦うことが大嫌いなのに、なぜエヴァに乗り続けていたのか? そして、何を望んでいたのか? こうした「シンジの心理的な謎」に対して、完璧なまでに答えを出しているのです。

この最終2話は、心理学で言うところの「生きられなかったもう一つの人生」を映像化したものです。「もし○○だったら、自分の人生はもっと素晴らしいものになっていたのに」という感覚は誰にでもあると思いますが、そうした心の引っかかり。ユングはこれをシャドーと呼び、自分の人生に様々な影響を与えている、と言っています。

一つひとつ解説すると長くなりますので、最も重要なシーンを一つだけ解説しましょう。「最終話」に、シンジの家庭での朝の様子が描かれたシーンがあります。死んだはずの母ユイが台所で朝食を準備し、ゲンドウは新聞を読んでいます。ゲンドウと入れ替わりにシンジが登場し、朝食を食べます。三人同時には食卓を囲まないものの、わかりやすい「家族団欒だんらん」のシーンと言っていいでしょう。どこの家にもあるような朝の一場面。そこには、父親がいて、母親がいて、子供がいる。

これが全てを説明しています。この「家族団欒のシーン」は、シンジの「生きることのできなかったもう一人の自分」であり、彼の願望が描かれたものです。第弐拾弐話「せめて、人間らしく」では、アスカがドイツの母親からの電話に出てドイツ語で長電話をするのを見て、シンジは言います。「母さんか……」「いいなぁ、家族の会話」ただ家族と楽しく会話をかわす、それだけを羨むシンジの姿が描かれます。