「本格派漫才」で挙がる先駆者は本当に「本格派」か
漫才とは本来そんな堅苦しいものなのだろうか。こうした批判を見るたびに、そのような考えが頭をよぎる。
漫才は自由だからこそ、何をしても許されるだけの度量があったからこそ、ここまで発展してきたのではないのか。『M-1グランプリ』の審査員を務めたサンドウィッチマン富澤たけしの言葉を借りるでもないが、自由と進化が許されるからこそ、漫才たるゆえんではないのか。最大の長所を否定するようになったら、それこそ「漫才」は真の価値や面白さを失いかねないだろう。
最近の漫才師に向けられる「本格派の漫才ではない」という批判について考えてみたい。そうした言葉を使う場合に「本格派」の例として挙げられるのは、古くはエンタツ・アチャコ、中田ダイマル・ラケット、夢路いとし・喜味こいし、横山やすし・西川きよし、近年ではオール阪神・巨人、中川家、サンドウィッチマン、ナイツなどといったメンツである。当然、ほかにも多数いるがここでは省略する。
しかし、このメンツがはたして「本格派」かというと疑問を呈さざるを得ない。今も活躍している人はさておき、すでに鬼籍に入っている人に関しては幻想を抱きすぎではないだろうか。
エンタツ・アチャコも舞台で大暴れしていた
エンタツ・アチャコは一般的に「しゃべくり漫才の元祖」と言われることが多い。活動時期が戦前ゆえに古すぎてもはや簡単に比較対象できる存在ではないが、当時の資料によれば喜劇的な動きや表情の多い漫才だったそうで、決して話術だけで勝負していたわけではなかった。ましてや、アチャコはデビュー当時、その頃の相方・浮世亭夢丸の映画説明風の台詞にあわせて、飛んだり跳ねたりと当てぶりをする漫才をやっていた。エンタツも青竹や長靴で相方(菅原家千代丸)をぶん殴り蹴倒す暴力漫才を得意としていたという。
今年のファイナリスト錦鯉がテレビや動画に出るたびに、「暴力漫才だ」「殴りすぎ」と批判されているのを見かけるが、「しゃべくり漫才の元祖」と称されるコンビでさえも、その鉱脈を発見するまで、マヂカルラブリーや錦鯉よりもよほど強烈で問題になりそうな漫才を演じていたのである。最初からあんな整然とした知的な漫才を演じていたわけでは、ない。