「なんでもあり」だからこそ芸として地位を高めた
裏を返せば、漫才には絶対的な定義や解釈を定めることができないということになるだろうか。身勝手といえばそれまでかもしれないが、しかしその身勝手さゆえに漫才は救われてきた部分が存在する。
現に芸能界の中で、老若男女問わず、これだけ漫才師がいるのも、「漫才はなんでもあり」という解釈が成り立つからであって、もし「こうでなければ漫才として成立しない」という制約があった場合、ここまでの隆盛や進化を遂げることはできなかっただろう。
「自由」「なんでもあり」の精神があったからこそ、漫才という芸がここまでの地位に上り詰めることができたといっても過言ではない。
定義づけをしようと思えば、いくらでもできるかもしれない。しかし、それは漫才にとって幸せなことなのだろうか。歴史を顧みることなく、都合のいい部分だけ抜き出して、「これが漫才としての正しい形」「本格派」などと定義づけしてみるのは、過去の漫才師の活躍を否定し、かかわってきた者たちの努力を否定しかねないことではないのだろうか。
常に変容と進化を許してくれる「漫才」
芸の好き嫌いはあって当然であるし、「これはおもしろいのか」と疑問に思うのは悪いことではない。しかし、好き嫌いと、漫才のスタイルの多様性への批判を混同してはいけない。
今、目の前で漫才を披露する漫才師が、10年後も同じ姿・スタイルでいるかどうかなど保証は一つもないし、大御所としてコメントをする漫才師やこれからの漫才師たちにも同じことが言える。
今の舞台が、彼らのすべてではない。一見同じような形でも、その裏では絶え間ない努力や模索が行われており、日々変容と進化を遂げているのである。そして、そういった変容と進化を許してくれるのが「漫才」という芸なのではないだろうか。