12月20日、漫才日本一を決定する『M-1グランプリ』が放送された。その内容をめぐって、「今年はつまらなかった」「これは漫才じゃない」といった指摘が相次いだ。漫才史研究者の神保喜利彦氏は「『昔の漫才は話術だけで勝負していた』というのは短絡的な歴史解釈だ。そんな解釈をなされたら、過去100年近くの漫才のほとんどを否定せねばならなくなる」という――。

好き嫌いと「理想の漫才像」を混同していないか

12月20日に放送された『M-1グランプリ2020』(ABC・テレビ朝日系)について、優勝したマヂカルラブリーをはじめ、ファイナリストたちの漫才スタイルが賛否両論の議論を巻き起こしているという。

賞レースに賛否両論はつきもので、仕方のないことである。しかし、その中で「これはコントではないか」「漫才ではない」「本格派ではない」という否定的な主張はひどく気になった。この手の意見や主張を見るたびに、私は「“本格”の漫才というものは存在するのだろうか」と考えてしまうのである。

言い換えると、当のコンビの芸の好き嫌いを自分の中の「漫才像」に当てはめて曲解してはいないか、ということだ。

観る人と芸人との相性は十人十色で好き嫌いがあってしかりであり、感性の問題である。好き嫌いで判断するのは別に悪いことではない。

しかし、「漫才ではない」「これはコント」という批判は感性の問題では片付けられないだろう。どこまでがコントでどこからが漫才なのかという明確な基準がはっきりしないままやみくもに批判され、「本格」の説明もないままに本格論が展開される。一種の「こうでなければいけない漫才像」めいたものが人の中にあることを感じさせる。