名人たちの晩年のスタイルが全てだと思っていないか
ダイマル・ラケットは「爆笑王」と称されるが、今残されている映像などを見るとそのリアクションの大きさに驚かされる。若い頃は舞台でパンツ一丁になってボクシングのまねごとをするコント風の漫才を演じて観客を驚かせたことも影響しているのだろうか、このコンビもまた決して整然と漫才を演じるタイプではないのだ。
確かに二人のギャグや話術が優れているのは言うまでもない。ただリアクションも起爆剤になっていたのは事実である。ダイマル・ラケットの漫才は正に見るにも聞くにも最適だったといえようか。
いとしこいしもまたしかりである。「上方漫才の至宝」のような扱いを受けている二人であるが、あの話術一本に行き着くまで、すさまじい変容を繰り返している。若い頃は「漫才学校」をはじめとするコメディに出演したり、ネクタイや衣装を舞台上で切り刻んでいく漫才をやったりと、前衛的なことに挑戦し続けていたのである。
それが身体の老化と、長年培ってきた話術や間への自信があの品のある漫才へと至ったわけで、若い頃からあのような芸ではなかったのだ。逆に言えば、若い頃の彼らが晩年と同じことをしようとしていてもまず無理だっただろう。つまり、あの飄然とした晩年の姿だけが彼らの漫才ではないのである。
ベテランは人気や実力を得たから今の舞台がある
漫才は変容を続けることで、そのコンビにあった形に成っていく。それは今日の阪神巨人やサンドウィッチマンやナイツにも言えることだろう。
今日第一線で活躍する漫才師に「昨今のM-1優勝者と同年代の時に、今と同じ漫才を完成させていたか」とたずねれば、十中八九は「否」と答えるであろう。人気や実力や地位を得たからこそ今の舞台を演じられるわけであって、そこに至るまでは相当の試行錯誤や芸風の模索を繰り返しているはずである。
そういう成功者の姿を、これからの成功者候補にあてはめようとするのはあまりにも傲慢ではないだろうか。そう考えると、批判者の放つ「本格的な漫才」の正体は、「先人の最終的なスタイル」「成功者のスタイル」というものではないか、と思うのである。
現状で評価がない・少ない若手中堅にとっては、相当な猛者でもない限り、そのスタイルをすんなり受け入れてもらうなどまず無理な話である。
身も蓋もない話であるが、そもそも『M-1グランプリ』は若手中堅漫才師を集めたテレビ向けの大会である。当然、審査内容も制限時間もテレビ局はじめ主催者の意向が重んじられる。いくら本格派がいたとしても、面白くなかったりタイムオーバーしたりすれば、予選落ちをする。
これは芸人のせいでもなく、観客のせいでもない。コンクールという構造上での脱落である。それが嫌なら、はなから「グランプリ」そのものを否定しなければならないだろう。