いつかはだれもが「おくられる人」に
納棺師という仕事をしていて毎日のように突きつけられるのが、「人はみんな死を迎える」という厳然たる事実です。いつかはだれもが「おくられるひと」になるのです。
たとえば入学や卒業、就職、出産といったあらゆるライフイベントは、経験する人もいれば経験しない人もいます。「成人式」「還暦のお祝い」のような年齢ごとに発生するイベントも、その年に達する前に亡くなれば経験することは叶いません。
また、「結婚するまでには」「仕事が落ち着いたら」○○したい、といった人生の区切りと目標をなんとなく思い浮かべる方は多いと思いますが、これらの区切りもまた、やってくるかはわかりません。結婚しないかもしれない。仕事で落ち着くことなんて一生ないかもしれないわけです。
ところが、「死」だけは100%全員におとずれます。死を経験しない人は、ぜったいにいない。「うちの子にかぎって」も「わたしだけは」もありえない。
いま地球上にいるだれもが経験する、唯一のライフイベントなのです。
しかもそのライフイベントは、いつやってきてもおかしくありません。昨日までふつうにしゃべっていたお父さんが、子どもが、ふっといなくなってしまった……ぼくは、そんなご家族をたくさん見てきました。
結婚式を目前に控えた新婦の死
たとえば、以前ぼくの会社で納棺させていただいた、若い女性。車に撥ねられ亡くなってしまった彼女は、結婚式を間近に控えた新婦さんでした。
入籍は済ませていたという、「夫」になったばかりの方の絶望の表情は、文字にすることなどできません。「このひとと一緒にいたら幸せになれる、幸せにしたい」と思えたその相手を―――しかも、もっとも幸せを嚙みしめているときに―――一瞬で失ってしまったのですから。
「死はいつやってきてもおかしくない」とわかっている納棺師でも、「いまじゃないだろう……」とその理不尽さに唇を嚙みしめずにはいられませんでした。
事故で。病気で。事件で。驚くほどあっけなく、ひとはいなくなってしまいます。今日という日を無事に迎えられたこと、そして明日が来ることは、なにものにも代えがたい奇跡です。
しかし、そんなある意味で究極の「自分ごと」であるはずの死ですが、多くのひとがあまり考えを巡らせていないのが実情です。とりあえずいま元気な自分には関係ないものだ、そんなことを考えてもしょうがない、縁起でもない、とできるかぎり遠ざけているのです。