「死」はおそろしいものではない

では、不意打ちでやってくる「死」とは、おそろしいものなのでしょうか?

ぼくは、そうは思いません。少なくともぼくにとって、死は恐怖ではなく……ただシンプルに、「いまは嫌だな」という感覚が近いかもしれません。「いずれ来るのは重々承知しているけれど、いまは勘弁してほしいな」という感覚。覚悟や恐怖ともちがう、もうすこしカジュアルな感覚です。

木村光希『だれかの記憶に生きていく』(朝日新聞出版)
木村光希『だれかの記憶に生きていく』(朝日新聞出版)

死が必要以上に怖がられたり避けられたりしているのは、先ほど言ったように、それについて考える機会があまりに少ないからではないかと思います。リアリティがないから、目を逸らす。そうして蓋をするからこそ、おそろしいものに感じてしまうのです。おくること、そしておくられることは、とても自然なことです。決して特別なことではないし、ましてやタブー視すべきものではないんですね。

しかし死は、いまこの時間の延長線上にあります。

高いところからモノを落とせば下に落ちる。生きていればお腹が空く。それと同じで、生きなければ死ぬことはないし、死を迎えない生もないのです。だから死について考えるのは、不吉なことでも「縁起でもないこと」でもないのです。

「死」を思うから、生き方を考えられる

みなさんにお伝えしたいのは、むしろ死は、その存在を知っておくことで自分の味方にできるということです。

なぜか。自分が迎えるであろう死を想定し、逆算することで、「どう生きるか」を真剣に考えるきっかけになるからです。

死を考えることは、生を考えること。生きる意味を問い、「どう生きるか」を考えることにつながります。その存在を頭に置いておくだけで、今日の行動や目の前のひとを見る目が変わる。そうすることで、日々をより濃く、豊かなものにできるのではないでしょうか。