解釈のぶつかりあいが新しい情報を生む

現場は、でこぼこしています。あらかじめ読んでいた文献の知識をたずさえて現場に行ってみると、文献に書かれているような単純なことではないことがわかります。そのでこぼこさに身を置くことによって、あらかじめもっていたフレームが壊れ、また、修正を余儀なくされます。

あらかじめつくっていた調査事項を修正し、フレームを修正し、さらに調査が続きます。調査のプロセスでは、フレームは何度も何度も修正する必要が出てきます。それがフィールドワークのおもしろさです。

とくに人びとにかかわる調査、社会にかかわる調査では、私たちがどんなフレームをもっていようとも、調べる対象である人びとも彼ら自身のフレームをもっています。私たちが社会を解釈しようとする前に、人びとも、社会を解釈しているのです。

こちらの解釈と人びとの解釈がぶつかりあい、ひびきあうことで、新しい解釈が生まれます。このプロセスはとても大事で、フィールドワークなしの認識が信用できないのは、そうしたプロセスを経ていないからです。

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フィールドワークで「学び」の姿勢が身につく

さらに、フィールドワークはそういう性質ゆえに、「学び」の場としての機能も強くもっています。

宮内泰介、上田昌文『実践 自分で調べる技術』(岩波新書)

私たちは、知りたいことすべてについてフィールドワークをすることはできません。しかし、フィールドワークの経験によって、そうやって雑多な情報がうごめく現場の感覚、そこからフレームが壊れ再構築されていく感覚を身につけることができます。

論文や記事を読む際にも、メディアの情報に接する際にも、そうしたフィールドワーク感覚が、それらを批判的に読む素地、立体的に読む素地になります。フィールドワークには、認識を深化させる練習場としての機能があると言えるでしょう。

文献調査では「○○と△△が原因で××になった」と書いてあっても、実際に現場に行ってみると、もう少し複雑であることがわかります。○○と△△だけが原因とも言えなさそうですし、完全に「××になった」とも言いきれないことがあるようです。

しかし、そうしたことをいろいろ現場で調べ、考えて、分析してみると、結局のところは、つづめて言えば、「○○と△△が原因で××になった」という、文献の文言と同じ言い方にならざるをえないこともあります。

それでも、文献でそう書かれていたのをただ表面的になぞって理解するのと、実際に現場でいろいろ感じて、聞いて、調べて、深く「そうだ」と理解するのとでは雲泥の差があります。

文字面の向こうにあるもの、表面的な情報の向こうにあるものを想像できるような感覚を身につける。認識のプロセスこそが重要であるという感覚を身につける。フィールドワークは、単にデータを得るだけでなく、そうした「姿勢」を身につける学びの場でもあります。