自然とのかかわり方を再考する契機
例えば、近代医学の画期的成果の一つであるペニシリンの発見は、当初目覚ましい成果を上げたが、ほどなくして耐性菌が発生し、その後次々と出現した耐性菌は抗生物質全体の使用を著しく複雑化させている。
部分的な知識で自然を把握しようとすると、より多くの手間とエネルギーを必要とする結果を招きかねない。そこで、要素還元主義ではこういった欠点を避けるために、さらに、細かい事実を寄せ集め確かめるという方法をとっている。
ただ、それは、いたずらに細部の厳密さを求める強迫性障害の心性とあまり変わらない。結局、不必要な情報の増大を招きその削除に多大のエネルギーを必要とさせている。しかも、新型コロナウイルスはそういったことをいくら積み重ねても防げず、その隙間を縫って侵入してきた。そして、人と人との分断を図ることで、さらなる弊害を発生させようとしている。
例えば、アフリカでは、ロックダウンがマラリアへの対応を阻害し、他の疫病への対策を遅らせ、事態をより複雑深刻化させている。
もはや新型コロナの制圧は難しく、戦うのではなく、自然のなせる業として、共存を図るべきだという識者は少なくない。それは、自然との妥協点を探してゆくということだろう。当面はそれしかないかもしれないが、そもそも、人類は自然との付き合い方を誤ってきたといえまいか。ITを含め科学的手法で人類の繁栄は保ちうると勝手に思い込んでいたのではあるまいか。
コロナ後に必要なことは、これまでとは異なる自然とのかかわり方ではなかろうか。それには新しい哲学が必要であるかもしれない。私はその糸口が古き東洋の知恵の中に見出せると愚考している。