細部にこだわる“強迫社会”に浸食される日常
学校のトイレの便座にコロナウイルスが付いている可能性は確かにゼロではない。百に一つ、千に一つ、いや万に一つでも、いかにまれな確率でも、そのまれな一つに掛けて、どれほどエネルギー、時間を費やそうと、回避のための行動方針を立てる。この考えが、それ自体間違っているとはいえない。
ただ、その行動の実効性が定かであろうとなかろうと一つ一つの細かい確認と回避作業を繰り返すよう駆り立てられる。
しかし、この細部へのこだわりは、今日的社会ではむしろ推奨されている。複雑高度な機械は一つ間違えれば大事故になるから、徹底的に細かいビス一つについても確認が必要である。薬の効能書きにはおびただしい注意が並べられ、めったにない副作用も書かれている。そのまれな副作用の記載があるために、かなりの効果が期待できる薬の採用も控えざるを得ないことが少なくない。
最近の契約書の内容もほとんど形式的でしかないことも言及され、それに従った無駄とも思われる対応を求められる。細部へのこだわりは社会全体を覆っているのである。
だからこの娘にこだわりすぎだなどという説得は通用しない。彼女はすでに細部に拘泥する強迫社会に侵食されているのである。これからも、強迫性障害の治療はかなり困難であることがおわかりいただけると思われる。実際、治療は完治を目指さず、現実との妥協点を探すように軽減を目指す。
近代は「部分から全体を把握しようとする手法」で成り立っている
この治療方針は、ロックダウン下で、経済の疲弊をできるだけ少なくするために人の触れ合いをどこまで認めるか、の妥協点の模索とどこか重なってくる。
近代的社会は強迫的確認社会と思われる。先ごろますますその傾向が増している。
なぜなら、近代を支えているサイエンスそのものが、さまざまな現象を細かく部分に分け、それぞれを分析して、部分から全体を把握しようとする手法(要素還元主義)をとっているからである。
これは、当面の成果を得るにはよいが、長い視野からは全く違う結果を引き出す危険がある。