【青い鳥症候群が行き着いた
「中国プロ」への活路:検証ルポ30代】

面接ではとても言えない理由での転職でした

「資料請求の葉書は、手当たり次第に100社分以上出しました」――広告代理店に勤める鈴木多佳子さん(33歳・仮名)が都内の女子大に通っていた頃、就職戦線は“氷河期”真っ只中。ライターのアルバイトをしていた鈴木さんは出版社志望だったが、内定が出たのは地元の東海某県の新聞社。

「地元には戻りたくなかった。完全な都落ち気分」。しかし、記者は出版社に辿り着く近道かもしれない、と「そのうち辞める気で」帰郷した。

新人研修で“販売員の気持ちを知るため”新聞の勧誘をしたり、ホスピスや老人ホームに通い、レポートに書いた。現場は最初から1人で巡回し人脈を開拓。警察(サツ)回りを担当した。

入社3年目に大学時代の友人から、勤め先のメーカーのマーケティング部門で人材募集を行うと聞いた。「当時は24時間拘束されたままで、転職活動など困難。焦りはありました。マーケティングに興味がないわけじゃなかったから、まず東京に出て、ここをステップにして出版社に行こう……という、面接ではとても言えない理由での転職でした」。上司は「特ダネの1本も書いてからにしろ」と引きとめたが、合格し上京した。

第二新卒として新人研修に参加後、マーケティングの仕事に就いた。

「他の人がすぐできることができず、理論は1から学びました。当初は居心地も悪かったですね。でも、机上論になりがちな分野なので、現場を見たり話を聞く部分で前職の経験を生かせてるかなと思っていた」

しかし1年、2年と経つうち、鈴木さんは仕事に行き詰まりを感じ始めた。

「新聞社では1年目で一通り仕事はできるようになったし、書いた記事はそのまま載る。でも、ここでの仕事はチーム単位。企画書の一部だけ担当し、それがNGなら外される。あの先輩の水準に達する日がくるんだろうか、と途方に暮れることもありました。データをそろえた後に発想を一度“ジャンプ”させる世界ですから、私が周囲に『常識人』と評されたことは、ある意味で致命傷でした」

新聞社で身についた“現場主義”がはからずも中国への特化バックボーンに。「プロパーでずっと1社にい続けると、動き出すきっかけがつかめないのでは」(鈴木さん)。

切羽詰まった鈴木さんの脳裏にあったのは、入社直後に出張した中国・上海だった。「『明日は今日より絶対よくなる』と皆が思ってる上海は新鮮でした」。いつかここに住もうと思い、赴任の希望を何度も出していた。

3年目、30歳で1年間の休職と上海の大学への留学を申し出た。ダメなら退職も覚悟のうえ。自分の上海行きが会社にどういうメリットをもたらすか、を延々書いて提出し、認められた。

「現地でのちょっとした調査やインタビューだけでは実態はわからないし、顧客に自信を持って説明できない。例えば、菓子1個の価格設定で“150円”がいかに高額かは、暮らした者の実感がないとわからない」

勉強は本当に楽しかった。中国語は、当初の筆談と英語頼みから日常会話レベルまで上げた。出版への未練は失せた。復職時に備え、上海支社でマーケティングのアルバイトを続けた。

帰国後、「行った意味がないから、中国の仕事をやらせてください」と上司を“恫喝”。「中国のマーケができる人はあまりいない。自信がついたのは最近1年くらい」。今は月1度、北京か上海に出張する日々だ。

もし、上海に行ってなかったら、今頃まだ転職活動を続けていたかも……鈴木さんはそう述懐する。

(荻野進介=構成 西川修一=文(ルポ))