88年10月には、J-WAVE開局の第一声を担当
自分を変えることへの切羽詰まった思いを支えたのは、幼い頃に肌を掻きむしったほどの激しい気性だ。変わらなくてはと激しく願った。このときの七転八倒が積み重なり、今、遠藤は根っから明るい。
「どこか、客観的に自分を見られたんだと思います」
すっかり遠いことになってしまっていたけれど、と遠藤が振り返った。
「そう、自分で自分を変えました。だから、願えば人は変われると自信を持って言えます」
気づけば、インタビューは人生相談となっていた。
「過去は忘れられます。そうでないと、生きていけないじゃない?」
ラジオで聴く声のままに遠藤が笑った。
「乗り切れるものですよ、人間は」
事故から2年後、離婚。半年後に再婚。仕事は徐々に増えた。88年10月には、J-WAVE開局の第一声を担当した。
報道番組で大切なのは「若さ」より「成熟」
もう1人の大樹が森本毅郎だ。
『森本毅郎・スタンバイ!』が始まった90年4月、遠藤は46歳。その頃には遠藤といえば「アシスタントの名手」という認知が社内に浸透していた。10年をかけて挽回したのだ。
キャスティングはTBSラジオのプロデューサー。廊下をすれ違いざまに「よろしく」と軽い調子で声をかけられた。
森本はNHKを退職して7年目の50歳、テレビを中心に鮮やかに活躍していた。『スタンバイ』は「聴く朝刊」をキャッチフレーズに、リスナー目線に沿うことを徹底して始まったニュース番組。報道分野から選りすぐりのベテランコメンテーターを招いての解説は、硬派だがわかりやすい。シニアから小学生まで幅広いリスナーを持つ。
番組が始まって間もなく、遠藤は森本からこう言われた。
「なあヤッコ、これからは年齢相応の声で、年齢相応のニュースを伝えていこうよ」
民放での仕事を続けるうちに、かわいらしい声で伝えることがいつの間にか身についていた。報道番組で大切なのは「若さ」より「成熟」。このときから遠藤は等身大の声で伝えるようになった。