「10年後に1人でも残っていれば上出来だな」

研修で講師が言ったことを今でも覚えている。

「この中で10年後にも会社に残っているヤツが1人いれば上出来だな」

特に反発を覚えたわけではない。ロールモデルの見当たらない時代、22歳の遠藤にとって、自立という言葉はまだふんわりとしたものだったのだ。事実、40歳の女性アナウンサーに「えー、こんな年齢まで働くの?」と驚愕きょうがくもした。

この頃、あるディレクターにこう話しかけられた。

「ヤッコさあ、年齢を隠すようなアナウンサーにはなるなよな」

女性の若さが今では考えられないほど価値があった時代に何気なく言われたこの言葉を、遠藤は頭の隅に持ち続けることになる。

試練は1年目に訪れた。

担当番組を持つなど恵まれたスタートだったが、自信をなくした。男性社会の荒波にもみくちゃにされ、人間関係で悩んだ。癇の強い「ヤッコちゃん」は、周囲のちょっとした言葉にグサグサと深く傷つき、ひとり涙を流した。

自分を持て余し、悩み抜いた。揚げ句、こんなことしてちゃダメだと、性格を変える決心をした。会社に行くと、ビルの守衛をはじめすれ違うすべての人に朗らかにあいさつし、「とにかく明るい遠藤泰子」を演じた。苦しかった。

撮影=今村拓馬
第7スタジオのこの席にふだんは森本とコメンテーターもいる。

26歳目前で番組ディレクターとの社内結婚を機にフリーランスに。永六輔のアシスタントを継続。天才的な放送人のもと、仕事は充実していたはずだ。

絶望で泣き尽くした「35歳の嵐」

嵐が吹き荒れた。35歳のときだ。

自動車免許を取得した翌日、飲酒運転で交通事故を起こした。少し前から夫婦関係が泥沼にあった。

テレビのワイドショーでもアシスタントを務めていた遠藤は、番組を降板。事故は女性週刊誌をにぎわせ、親しい人たちが離れていった。全てを失ったと思った。軽井沢の知人の別荘に身を隠し、絶望で泣き尽くした。2カ月ほどたち、どん底の遠藤に「そろそろ戻ってくるか」とある役員が声をかけてくれた。恩人の永六輔も「帰っておいで」と言う。そっと番組に戻った。

仕事の間はいや応なく一切のプライベートを忘れられる。仕事が遠藤を苦しみの底から引き上げた。

「相手の感情はどうしようもない」「もう一度やり直したいと思ってもそういうものでもなかった」と振り返る言葉は、事態が遠藤の望まない方向に進んでいたことを思わせる。

思い通りにならない人生に折り合いをつけ、自分を納得させなくてはならない。23歳で「自分を変えられる」と知ったことが、嵐をしのぐすべとなった。激情を抑えつけ、揺れ動く感情をなだめることを繰り返しながら、ますます「円満で明るい遠藤泰子」をつくりあげた。