アナウンサーならメインを張りたいのではないのか

「2人の大樹との出会いがありました」

インタビューは、遠藤のこの言葉から始まった。

23歳で永六輔に出会った。テレビ・ラジオの黎明期に一時代を築いた放送作家・作詞家・タレントにしてしゃべりの天才。遠藤はラジオ番組『永六輔の誰かとどこかで』のアシスタントに起用された。

「永さんにお会いしたとき、放送を通じて発せられる言葉はこういう人が紡ぐべきことなんだ、自分が何かを表現したいなんて思い違いだったと、痛感しました」

そして遠藤は「聞く立場」を自分の仕事と定めたという。

撮影=今村拓馬
「ただただ長く仕事をしてきただけで取材を受けるなんて恥ずかしいです」と遠藤ははにかんだ。

寄らば大樹の陰。永六輔という大樹の陰で聞き役(=アシスタント)に徹してきたという意味なのだろう。だが、アナウンサーとはメインを張りたいものではないのだろうか。

「ええ、ほとんどのアナウンサーはそうだと思いますよ。自分の冠番組を持ちたい人は多いと思います」

実際、アシスタントなんかをしているから女性のアナウンサーはダメなんだ、と同じ女性アナウンサーに切り捨てられたこともあった。

「でも、一番手になれないことは自分がよくわかっています。それにメインを支えるアシスタントの仕事をつまらない仕事とは思っていません。アシスタント役がいないと番組が成り立たない部分もありますし。何より、私はアシスタントの仕事が好きなんだからいいじゃないのと。そんな生き方をしてきちゃいました」

アシスタントを53年。この強い意志はどこからきているのか。

1966年に「第11期アナウンサー」としてTBSに入社

1943年、横浜生まれの遠藤は戦時中の子どもだ。両親は明治の人。父が40歳、母が37歳で授かったひとり娘。

撮影=三宅玲子
遠藤がスタジオに入る後ろ姿。ここから空気が一変した。

音読が好きで、おはこは「万寿姫」。母は「ヤッコちゃんはほんとうに読むのが上手」と褒めた。

一方で、思い通りにならないことや受け入れられないことがあると、自分の肌を掻きむしって激しく傷つけてしまう。癇の強い子どもだった。

ウーマンリブの世代だ。自活への自意識は早くに芽生えた。結婚して家庭に入る平凡な幸せを娘に求める両親に強く反発した。

だが、奇妙な矛盾も抱えていた。

「ステージがあるとしたら、見る側ではなく演じる側に立ちたい。でも主役はいや」

ちょっと控えた位置で目立つことを好む志向はアシスタントに適している。

女子の大学進学率が3.3パーセントだった年に、立教大学へ。

100倍の倍率をくぐり抜け、4人の女性同期とともに第11期アナウンサーとしてTBSに入社したのは、東京オリンピックの2年後、1966年だ。