視聴者不在の中で動画配信を続ける若者たち
学生との共同ワークショップで、動画の「無観客配信」をする若者が徐々に現れていることを知りました。視聴者がいないのに、自分の好きなものや感じていることを、カメラに向かって話して動画配信するのです。一見「なんのために?」と思いますが、よく考えれば「フォロワーが少なくてもツイートする行為」とあまり変わりません。
背景には、お花見、始業式、入学式、GWの河原のバーベキュー、部活の大会などの「人生のイベント」が延期や中止になってしまったことがあります。「時期が来たらイベントが強制発生する」感覚が薄れ、「自分から能動的に物事に関わってイベントを起こしていかないと、何も起こらない」という日々を痛感した若者が少なくなかったようです。
社会からすれば、何も能動的にやらないで家にいる自分は「いないのも一緒」なのではないか。そういった「能動的でないといけないと感じる圧」は強まったとも言えます。動画配信やツイートは、この心理の表れでしょう。
たとえ一念発起して行動しなくとも「世の中や社会に参加している実感」を得られるような体験へのニーズは、コロナ禍が収束に向かった後も「個々人が自己裁量で生き方を決める」ベクトルが続く限り、強まっていくように思います。
「人は多面的である」という前提
例えば、ある人が出社し自席に座り、対面で会議に出ることを「その人への信用の根拠」にするといった価値観が、コロナ禍により保つことが難しくなりました。
その人がまちがいなくその人であるというフィジカルで形式的な「同一性に基づく信用」は、リモート前提の人間関係とはなじみません。若者にまつわるトピックで言えば、今年の新卒採用でリモート面接を導入した一部の企業では、「画面に映らない場所で親が助言をしていないか」「カンペを読んでいるのではないか」など、新たな懸念に人事が頭を悩ませているとのことです。
しかし、よく考えると若者の価値観はコロナの前から「同一性に基づく信用」にこだわるよりも、「多面性を前提とした信頼」へと、シフトしていました。複数のSNSアカウントを持ち、アカウントごとに話題や口調、人格が変わる。実名も知らず顔も見たことのない相手と、オンラインゲーム上の振る舞いややりとりだけで恋愛が始まるケースもありました。
Face to Faceでコミュニケーションをすることに本質はなく、大事なのはMind to Mindで向き合っているか。若者はもとより、他者を「フィジカルな同一性でしか信用しない」という価値観から移行していたわけです。
見えない他の面について過度に詮索したり疑ったりすることはしない。このシフトは、感染拡大を避ける生活様式を検討する中で改めて浮き彫りになった手続きや業務の非効率性の課題も相まって、不可逆な変化として続くでしょう。
この構図は、スマホ持ち込み可の大学受験の是非が議論されたときと似ていますが、「その人は、本当にその人なのだろうか」と性悪説的にゼロリスク発想に拘泥するとそこから先に考えが進みません。
「人は多面的である」「今自分と向き合っている面以外で、その人がどんな人で何をしているかにこだわりすぎない」「向き合っている面において、きちんと信頼に応える振る舞いをすることこそ本質である」ということを前提に置いた制度やサービス、手続きの設計が、企業には求められていくでしょう。