若い選手たちを見て自らを省みる
9年間のプロ生活に後悔はありません。けれど、当時の自分を改めて振り返ると、「ど」が付くほど真剣に野球に取り組んでいたのかに疑問を抱くのです。もがきながら、足搔きながら、野球に取り組んでいたはずなのに、心の片隅に逃げ道を作っていたように思えるのです。
東京学芸大学で教員免許を取得した私は、両親から教員になることを勧められていました。他でもない自分自身も、教員という仕事に魅力を覚えていました。それが、「プロ野球選手を辞めるときが来たら、教員になればいい」という気持ちにつながっていたのかもしれません。
ファイターズの選手を見ながら、現役当時の自分を思い出すことがあります。一生懸命にやっているのだけれど、58歳になった私からするとあと少し、もう少し、熱が足りない。「野球ができるのは今日が最後だ、だからすべてを出し切ろう」というぐらいの気持ちでやっているのだろうか、と感じるのです。
10代や20代前半の選手には、成長できる時間があります。ただ、時間があるから練習を「それなり」に「こなせばいい」ということにはなりません。一日たりとも無駄にしない、自分を甘やかさない姿勢が、レベルアップにつながる。お世話になっている人への恩返しにもなる。
自分は本当にギリギリのところで頑張っているのか。もうこれ以上はできない、というぐらいに仕事に情熱を注いでいるのか――若い選手たちを見つめながら、私自身も絶えず自問自答をしています。
能力不足で自分への怒りさえこみ上げた19年シーズン
この原稿を書いている時点で、19年のレギュラーシーズンは残り10試合と少しです(※編集部註:2019年度の成績はパ・リーグ5位だった)。9連敗と8連敗を喫した時点で、監督としての自分に疑問符を打ちました。
チーム、スタッフ、選手に迷惑をかけてしまうだけなら、辞めなければならない。しかし、私がこのチームでやるべきことがあるなら、続けていくことに意味がある。ふたつの正論の間で、揺れる自分がいます。
自分には本当に能力が足りない、と痛感します。自分の無力さが悔しくて、自分への怒りさえこみあげてきます。栗山英樹という監督の力量が不足しているばかりに、ファイターズの選手たちを手助けできていないのですから。一人ひとりの選手が存分に力を発揮できる環境を、用意できていないのです。
一方で、19年シーズンに味わってきた苦しみや痛みに、感謝する自分もいます。
『論語』に「学べば則ち固ならず」という一文が収められています。学び続けていないと頭が固くなってしまう。学ぶことによって視野が広がり、柔軟な発想が生まれ、たくさんの選択肢を持てる。そう私は解釈しています。