凡庸な博士論文ほど認められ、新奇な内容は落とされる

現在、老年精神医学、精神分析学、集団精神療法学を専門として、クリニックを開いている筆者は、東大医学部を卒業後、アルツハイマー病患者の肺炎に関する研究論文で東北大学より博士(医学)の学位を取得した。

その前年に、不名誉なことに、3年に一度しか落とされることがないとされる(約350人に1人のペース)、同大学の博士論文に落とされた経験をしている。

自分の論文は、高齢者の精神療法でうまくいったケースを数例集めて、現代精神分析でもっとも人気のある学派の自己心理学を用いると治療する際に有用性が高い、ということを論じたものであった。旧来型の精神分析を用いなかったのがポイントだった。落とされた理由は、「統計処理されていない。これは論文でなく論説だ」。主査(審査委員長)は精神科の教授である。

この論文は、年間約15編の優秀論文を掲載するアメリカの自己心理学の国際年鑑に日本人として初めて選ばれたものである。だから言うわけではないが、日本の大学の問題のひとつは、「仮説を立てるより検証(証明)が重要だ」とする土壌にある。つまり、「仮説のみ」という論文はほとんど許されないのだ。

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350人中1人しか落とされない。言い換えれば、350人中349人は落ちない。凡庸な内容であっても、検証しやすい仮説を立て、動物で実験して、統計的に有意差のあるデータを残すことができれば、普通に博士号がもらえるということだ。逆説的に述べれば、退屈で平凡な内容こそ論文に絶対必要な条件なのだろう。

ノーベル物理学賞の湯川秀樹の論文は「仮説のみ」

これではユニークな発想が出てくるはずがない。いや、むしろ人が考えないような新奇な発想は博士論文「合格」の邪魔になる。

あの湯川秀樹が日本人で初めてノーベル物理学賞を受賞した理由は、中間子の存在を証明したからではない。その存在を仮定して、後にそれが発見されたことがノーベル賞につながった。日本でも、物理の世界では、ユニークな仮説を立てる人間を評価する気風があるようだ。だから物理学の世界では留学せずに日本で研究を続けていてもノーベル賞がいくつも取れるのである。

筆者のケースからさらにいうと、日本では心のケアのように統計に反映しづらい分野の研究をする人がどうしても少なくなってしまう。なおかつ、半ば教授の好き嫌いが、その弟子的存在である研究者の研究テーマに大きな影響を与えるということだ。

東北大学の筆者の博士論文の主査の精神科教授は16年間の任期中、薬や脳波など精神医学の生物学的な研究には学位をすべて合格にしたが、筆者の論文を含めて精神療法(カウンセリング的な心の治療)の論文に在任中学位を与えることはなかった。