教授に気に入られないと博士にすらなれない土壌
結局のところ、教授に気に入られないと博士にすらなれないのでは、とても自由な研究ができるとは言えないだろう。それに比して、ノーベル賞を受賞した旭化成の吉野氏のような企業内研究者はこうした窮屈さはないのではないか。もちろん、成果を出さないと配置転換されるリスクはあるが、研究環境としては自由なのだろう。現に企業研究者の受賞は欧米の国より多いくらいだ。
企業内研究でなくても、海外に留学すれば忖度しない研究姿勢が身につく、要するに上司(=教授)に気に入られるかどうかどうかより、研究業績で勝負すればいいという発想が身につくかもしれない。
国内でも同じ東大(もしくは京大)の物理学の教室のように、自由な研究を許す土壌がある研究室もあるに違いないが、ノーベル賞の受賞者を見る限り、あるいは、私が35年間医学の世界にいて見聞きした限り、それは例外の中の例外と言っていい。
日本の大学が賢い人をバカにする土壌がある
以上、日本の大学のネガティブな側面を書き連ねたが、どうすればこうした現状を打破できるのだろうか。最初に言えるのは、教授会で教授を決めるシステムが続く限り、その土壌に大きな変化は期待できないということだ。アメリカのようにスカウト係のような人(ディーンと呼ばれる)が教授を決める仕組みなら、いい研究をすれば上に逆らっても出世できるが、今の日本のシステムでは上に気に入られるかどうかという情実がどうしても入ってしまう。
また、一度教授になれば定年までほぼ身分が保証され、さらに医学部のように講座の主任教授が研究費もそのテーマも差配する権限をもつ制度では、教授のパーソナリティが寛容であれば自由な研究が可能だろうが、そうでない場合は、10年から20年にわたって、どんな研究をするにしても教授の顔色をうかがいながらということになってしまう。
くり返しになるが、偏差値が日本でトップの東大医学部からノーベル賞が出ないことをもって、「ハードな受験勉強によって自由な発想が阻害される」とは筆者は考えない。
東大を含めて、医学部の臨床科(基礎医学分野でない)で研究した人がノーベル賞を取ったことがないことからも推察されるように、あるいは物理学以外は何十年にもわたって日本の大学だけで研究した人がノーベル賞を取っていないことから推察されるように、あるいは、企業研究者がノーベル賞を取ることが欧米よりむしろ目立つくらいなことから推察されるように、「日本の大学が賢い人をバカにする土壌がある」と筆者は考える。国が大学の研究費を増やすとともに、こうした悪しきシステムの改革をしないと日本の科学研究はますます立ち遅れたものになることを、声を大にして警告したい。
こうした問題は、一般の企業でも同じで、「硬直化した人事制度」や「自由な発想ができない環境」は賢い人をたちまちバカにしてしまう可能性が高い。
以前、高校(灘校)の同窓会に出たことがあるが、自分と同じように東大に入学し卒業しても民間企業に入った人はびっくりするほど愛想がよくなって、私にビールなどを注いでくれるのに、官僚になった人たちは、民間企業に入った同窓生がビールを注ぐのを椅子に座って悠然と待っているのに唖然としたことがある。
自分が身を置く環境によって本来頭のいい人がバカになっていないか、自問自答する姿勢を忘れてはいけないだろう。