偏差値教育とノーベル賞との関係を考察する

最初に筆者自身の意見を述べよう。「受験勉強がノーベル賞を受賞するような発想を阻害する」ということは断じてない。

東大出身者は文学賞・平和賞を含めて7人が受賞しており、その数は京大の8人に次ぐ。また、京大に合格するにも東大と同等の努力が必要であり、受験勉強に意義がないとは言えない。むしろ少科目受験の私立大学出身者はこれまでノーベル賞を取っていないことからも、いろいろな科目を勉強することは研究のベースを作る上で必要だと考える。筆者の経験では、ハーバードのビジネス・スクールなどの欧米の名門グラデュエート・スクールなどでも日本の元受験秀才の評価はおおむね高い。

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必死に“偏差値”を上昇させようとする日本の受験勉強を批判する声は以前からある。その主張の背景にあるのが、日本以上にノーベル賞を受賞している欧米ののびのびとした教育法だ。例えば、アメリカではハードな受験勉強が不要なAO型入試が多い。

だが、そうした現地の教育を受ければ才能を開花させる可能性が高まるわけではないだろう。なぜそう言えるのか。アメリカに日系人が150万人もいるのにこれまで日本人のDNAを持つ人が現地の教育を受けてノーベル賞を受賞した人がゼロだからだ(子供時代に長崎県からイギリスへ移住した文学賞受賞者のカズオ・イシグロ氏を除く)。

というふうに考えると、日本の「受験勉強」は手放しで賞賛される学習スタイルではないにしろ、ノーベル賞を受賞できるような先進的で独創的な発想を阻害するというわけではないと思うのだ。

日本の初等教育は世界的に高評価、大学は低評価

ただ、1点、これだけは認めなくてはならない。

日本の大学あるいは大学院以降の教育はけっして芳しいものとは言えない、と。もっと言えば、大学・大学院の「教育」の質は低い。80年代以降、アメリカやイギリス、東南アジア諸国は、初等中等教育改革の手本を日本のそれとした。しかし、日本の大学を見習おうとした国はない。アジアの優秀な学生も日本を素通りしてアメリカの大学や大学院に入りたがるのは周知の事実だ。

なぜ、不評なのか。理由はさまざまだが、もっとも大きな問題は、学生や院生の成果に対する評価の方法がひどいことだ。

筆者自身の経験をもとに類推すると、日本の大学で研究することが「自由な発想」を阻害しているように思えてならない。