可能性が残されているのは素晴らしくも残酷だ

逆に言えば、どんな人間でも可能性がゼロパーにならないことが、人生の素晴らしさであり、残酷さなのだ。人は誰でも、自分に与えられた時間を自由に使う権利がある。仮に、可能性がゼロだったら、ああ俺には可能性がない、堅実に今を生きようと、諦めがつく。だが、イチパーでも可能性があれば、そのイチパーに残りの人生のすべてを賭ける人がいても、咎められない。

友人が「1度きりの人生! 俺はイチパーに賭けてみる!」と騒ぎ出したら、「それは無理じゃね?」とカタチだけの助言はするかもしれない。もちろん、世の中には、少ない可能性に賭けて勝つ人も存在するので、イチパーにベットするような人生を、否定することは誰にもできない。

以前の職場に、己の人生をイチパーに賭ける猛者がいた。「サラリーマンには夢がない」「このまま俺は死にたくない」などという意見を述べ、会社を去っていった某若手社員君。彼の出勤最終日に、「いいですね〜。先輩はいつまでもくすぶっていられて〜。俺にはできないっす」と言われた。

そのときは「こんなアホでも、沸々と種火のように燃えたぎっている僕の仕事に対する熱い気持ちに敬意を示しているのだなあ」と勘違いして「まあね。俺は熱く燃えているよ〜」と笑って返してしまった。胸を張った。後日、彼の表情や声色等を加味して検証してみて「あんたは不完全燃焼で一酸化炭素中毒を起こしているボンクラ」とバカにされていただけのことに気付いた。あのときの自分を殴りに行きたい。何が、まあね、だよ。間抜けが。

可能性に賭けている人は聞く耳を持たない

「世の中をナメないほうがいい」という真っ当な助言も、一部のイキっている人間からすれば、余計なお世話とされてしまう。最悪、「この人、老害。自分が終わっているからって僕たち私たちを潰さないでほしい」と誹謗中傷を受けてしまう。善意が伝わらないのがつらすぎる。

若手君に今後の展望を尋ねると、「起業して、ビジネス界でビッグになって、カッコいいライフな生活を送ります」と「頭痛が痛い」みたいな表現で未来設計図を教えてくれた。ビジネス界もずいぶんとイージーになったものである。実際的な話をすると、会社の戦力として考えてみた場合、彼は、まったくモノにならなかった。

彼をなんとか戦力にしたい、という薄気味悪い善意も微量にあったけれども、ただただ自分に飛び火してくるのがイヤだったという保身から、こうしたほうがいい、ああいうやり方もあるぜ、などとアドバイスした。だが、彼は聞く耳を持たなかった。きっと、どっか別の星にあるビジネス界に意識が飛んでいたのだろう。