大見栄切って会社を辞めた後輩は結局戻ってきた
「この仕事は俺には向いていない。でも、俺の才能を活かせる分野なら、きっと俺は輝ける。だいたい俺はファッションで生きてきたモード系男子。服飾専門学校でも尖ったダチからは評価されていた。センスのない講師から教わるものがないとわかった瞬間に退学したけど」
そんな戯言をよく言っていた。退職間際に、今後、具体的に何をやるのか尋ねてみると、「そうですね、とりあえず大学生の彼女とJALに乗って奄美大島へ行き、近畿日本ツーリストで手配してもらった宿に3泊ほどしながら満天の星空を眺めたり、郷土料理を満喫したり、スキューバダイビングを楽しんだりしてくるつもりです」と具体的に計画を教えてくれた。
なるほど、確かに具体的。具体的にアホさがよくわかった。それが今生の別れになってくれればありがたかったのだが、彼は、退職して数か月後にふたたび僕の前に現れて、「俺みたいな必要悪は絶対に会社の役に立つと思いますよ」などとたわけた主張をして復職を求めてきたのである。これを悲喜劇と言わずして何と言うのだろう。
彼がこんなふうになったのも、ビジネス界でサクセスする可能性が0.1%「も」あったからだ。彼は自分の可能性に賭けたにすぎない。それを非難できる人はいない。もし、可能性が0%であったなら、悲劇は起きなかったはずだ。このように途方もないボンクラ人間でもわずかながらに可能性があることこそが希望であり残酷なのだ。
サイコーな人生の水面下にはバタ足の努力があるはずだ
なぜ、人と違うことをやろうとするのだろうか。ひとことで表現すれば「カッコいいから」に尽きる。確かに、事業を興したり、車を1カ月に1000台売ったり、会社の規模を1万倍にしたり、深キョンとお付き合いしたり、夢のような人生を僕だって送ってみたい。サラリーマン人生からは、ほど遠い、派手でカッコいい人生。サイコーだ。
なぜサイコーなのか。インスタ映えするサイコーな人生のサイコーな部分だけ見ているからサイコーなのだ。月並みな表現になるが、優雅に泳いでいる白鳥でも水面下では必死にバタ足をしているように、サイコーな人生の陰には、バタ足の努力があるはずなのである。
サイコーで白鳥な人は、バタ足姿を見せていないだけなのだ。1枚のインスタ映えの裏には、削除された1000枚の失敗写真があるのだ。だから、サイコーな表面を見て、憧れて追っかけたところで、高い確率で失敗する。
サイコーな人生を目指して、可能性に賭けようとしている若者をつかまえて「キミは失敗する」と忠告しても、僕には老害のあなたと違って可能性がある! と切り捨てられるのがオチだろう。