作者の意図と異なる「誤配」が生まれる空間だった
私個人は、赤旗が公立美術館で展示されてよいかという点については、議論が必要だと考えるものの、現代アートの美術作品としては、展示作品を覆い隠すことによって逆説的に非常に興味深い完成度を示しているように思う。
というのも①豊田の街の特性を考えると相対的に少ない部数の政党機関紙が、②共産主義政権に距離を置くアーティストの手に渡り、③公立美術館で展示されるという奇跡は、「表現の不自由展・その後」の展示中止がなければ生まれなかった芸術的邂逅だからだ。
もちろん、こういった楽しみ方は作者の意図を全く無視したものである。ただ、アートに限らず芸術文化をどう楽しむのかは鑑賞者に委ねられるものであり、私のような見方は、いわゆる「誤配」が起こっている状況であると言える。
当初、あいちトリエンナーレ2019のアドバイザーを務めていた東浩紀は、表現者の思惑と異なる形で情報が伝わることを、著作『存在論的、郵便的』(新潮社)などで「誤配」と表現している。人類の文化は「誤配」によって発展してきたともいえ、現代アートの祭典であるあいちトリエンナーレは、この「誤配」を大いに楽しめる空間だった。
「表現の自由」への賛同を全作家に強いるべきなのか
「不自由展」がいったん中止されたことを受け、愛知県の大村秀章知事は、8月に表現の自由を重視する「あいち宣言」の採択を提案。その後、参加作家有志が草案をまとめ、10月8日付けで内容が公表された。それに対するコメントを付して、あいちトリエンナーレをめぐる旅を締めくくりたい。
「あいち宣言」の理念は崇高だ。しかし美術展の開催後にこうした宣言を事後的に採択する場合には、考えなければならない問題がある。
「表現の自由」は絶対的な価値であると私も思いたい。だが、現実問題としては、中国やシンガポールと言った巨大検閲システムを持つ国家から招いたアーティストもいる。中国やシンガポールに検閲があることは、同志社大学の河島伸子教授が「税金を使った美術展は『不自由』でも仕方ないか」(プレジデントオンライン、8月27日)で述べている通りだ。彼らに自由圏の価値概念である「表現の自由」に賛同するような“踏み絵”を迫ることは慎重に検討する必要があろう。
「あいち宣言」の草案に、「中国(やシンガポール)のような検閲体制を作るな」というアピールがあれば私も驚嘆したが、やはりそういった主張は入っていなかった。