「表現の自由」のない国の素晴らしい作家や作品をどう考えるべきか
「表現の自由」が制限された国や地域で芸術活動を展開しているアーティストにも素晴らしい作品があり、イスラムを始めとする西欧文明圏には理解しにくいタブーを有した文化においても芸術は発展してきた。
そもそも、「暗黒の中世」と言われた1000年間のヨーロッパ社会においても、丁寧に見るならばそこには文化的革新が波状的に存在し、その間に生み出された芸術の価値は現代にまで続く。所詮、「表現の自由」は、西欧近代システムにおけるドグマであり、一方で現代アートは、ポストモダンの観点から近代の価値概念に疑念を投げかける。
「表現の自由」は、我々が当然としてきた西欧近代システムの価値規範の核心であるのは間違いない。ただ、その文脈から離れ、「表現の自由」が芸術文化に対してどのような作用を持ちうるのかという両者の関係性について考察する機会としても、今回のあいちトリエンナーレは大きな価値を持っていた。
アートに無関心な「大衆」に向き合う必要がある
本稿の執筆中に、「表現の不自由展・その後」は、非常に限定的な条件のもとで再開され、他の展示作品も当初の状態に戻った。ただ、JNNの世論調査(調査日:10月5日、6日)によれば、文化庁の補助金不交付の決定に対し、「適切だった」という回答は46%で、「不適切だった」は31%、「(答えない・わからない)」が23%だった。
美術展が再開されても、問題の根本は解決されておらず、世論の支持がないとすれば「宣言」は美術界と愛好者だけの価値規範になってしまいかねない。今回の「表現の自由」をめぐる論争が、「だからアートは理解できない」とか「現代アートは特殊な趣味」などと思ってしまう人々を増やすことになりはしないだろうか。理想を理想のままで終わらせないための方策が必要であろう。
「あいち宣言」の草案には、実はこの「特に美術に関心のない大衆」に対する働きかけがほとんどない。「宣言」は芸術家、キューレーター、カルチュラルワーカー、鑑賞者などの芸術文化産業のステークホルダーのあり方や責務に関しては非常によく考えられているが、地方芸術祭を支える美術に無関心な納税者たる「大衆」に対して、どう向き合っていくのかという考察に乏しい。新たな分断を生まないためには、芸術祭が「気楽で楽しい単なる観光イベント」という側面を持つことも重要であろう。