「法律家共同体」の根拠なき特権化

長谷部教授は、立憲主義について二つの異なる観念を持っている。一つは、「公」と「私」の区分という一般的原理にもとづく「立憲主義」である。もう一つは、(内閣法制局と憲法学者からなる)「法律家共同体」が決めたことは「法的安定性」のために変更してはならない、という「権威主義」と言い換えるべき「立憲主義のようなもの」である。この第二の立憲主義あるいは立憲主義のようなものが、「政府を制限するのが立憲主義だ」といった野党受け・団塊の世代受けするスローガンで脚色されたりするので、いっそう混乱が広がる。

集団的自衛権は違憲だという見解を内閣法制局が正式に表明したのは、1972年である。団塊の世代が学生運動を起こし、成人した時期の直後だ。団塊の世代の弟のような1956年生まれの長谷部教授が属する世代からすれば、10代後半からずっと、集団的自衛権は違憲だった、ということにはなる。

しかし、ただ、それだけのことだ。団塊の世代を中心に法律概念を組み立てることには、「さしたる合理的理由がない」。むしろ冷戦体制が終焉すれば、見直しが必至となるのが、当然だったのである。

現代憲法学の底流にある「アメリカ不信」

さらに言えば、結局、憲法学において最も重要なのは、アメリカに対する不信である。アメリカを信用しないからこそ、長谷部教授は、最後の最後には、他の護憲派の人々と大同団結できる。

「自国の安全が脅かされているとさしたる根拠もないのに言い張る外国の後を犬のようについて行って、とんでもない事態に巻き込まれないように、あらかじめ集団的自衛権を憲法で否定しておくというのは、合理的自己拘束」(注7)だ、という長谷部教授の説明は、集団的自衛権の法理が予定しているわけではない状況を、日本が常に直面する状況であると言い替えてしまう説明である。政策的分析・判断で対応すべき状況を、集団的自衛権の違憲性それ自体の根拠として主張してしまう操作的な議論である。

自衛隊を合憲とし、相対主義的法律観を徹底しながら、それでも長谷部教授が、集団的自衛権はそれ自体として違憲だ、と断定できるのは、同盟国アメリカが日本をだます悪い国だということが判断基準として確立されているからである。もし、アメリカがそれほど悪い国ではなかったら、万が一、ほんの時折でも、アメリカが合法的で正当な国である可能性があったら、長谷部教授の集団的自衛権違憲論は、説得力を失う。