アメリカに憲法を書かせた張本人

実は宮沢は、終戦後の1945年末の段階ではなお、ポツダム宣言を考慮しても新憲法は必要ではない、大日本帝国憲法の適正運用で充分だ、という立場をとっていた。幣原喜重郎首相の内閣に設置された「松本委員会(憲法問題調査委員会)」の主導的な委員として守旧的な改正憲法案を起草したのは宮沢だった。そのあまりに保守的な内容でGHQ(連合国軍最高司令部)を焦らせて、GHQ独自案の起草に踏み切らせたのは、宮沢であった(注10)。宮沢は、逆説的な意味でのみ、日本国憲法の生みの親であった。

篠田英朗『憲法学の病』(新潮新書)

その宮沢は、1946年2月に、GHQが起草した憲法改正草案要綱を見たとき、態度を変えた。「国民主権主義」を掲げて、新しい憲法を擁護する立場に舵を切り、後に「一つの人格が崩壊して別の人格が誕生した」とまで評されるようになった(注11)

「八月革命」という奇妙な学説は、日本国憲法がアメリカ人によって起草されたこと、つまり日本国憲法がアメリカの憲法・政治思想の影響下にあることを覆い隠すための方便だった。「八月革命」とは、アメリカの影を追い払う政治工作の物語を確立するための措置だった。

それにしても、この宮沢の措置の帰結として、憲法9条の解釈までもが、反米主義のガラパゴス的なものになってしまったのは、非常に残念なことであった。

葬られた「国際法秩序の中の憲法」論

宮沢の「八月革命」は、真の主権者が危機において出現する、といったカール・シュミットの決断主義にむしろ近い。シュミットの影響は、丸山眞男が「八月革命」のアイディアを示唆したというエピソードとも合致する。丸山の出世作「超国家主義の論理と心理」は、宮沢の「八月革命」論文と同じ1946年5月に公刊された論文だったが、丸山が議論の基盤としていたのは、カール・シュミットであった(注12)

しかし、それにしても日本国憲法誕生の法理として密かにナチスとの関係も深かったシュミットが導入されていたことは、戦後の憲法学の発展の裏に潜む「出生の秘密」と言ってよい一大問題だ。

宮沢は、法哲学者・尾高朝雄との間で、1947年から49年にかけて主権をめぐる有名な論争を行った。「ノモスの主権」で知られる尾高は、戦後の日本において、「国民主権主義と天皇制との調和点」を模索すべきだと考えた。ノモスとは「政治ののり」であり、「政治の方向を最後的に決定するものを主権というならば、主権はノモスに存しなければならない」。尾高は述べる。「私の主張を……直接にいうならば、それは、主権否定論であり、主権抹殺論である」(注13)