(編集部注:今なお憲法学テキストの定番とされる)芦部信喜の『憲法』によれば、「八月革命」説とは、「国民主権を基本原理とする日本国憲法が明治憲法七三条の改正手続で成立したという理論上の矛盾を説明する最も適切な学説」である。「八月革命」説によって、日本国憲法が「国民が制定した民定憲法である」ことがわかる。ただし「明治憲法との間に形式的な継続性をもたせることは、実際上は便宜で適当であった」だけにすぎない。だから明治憲法と日本国憲法との間に「法的連続性」はないのだという(注6)

日本国憲法の「アメリカの影」を覆い隠す

果たしてこれは法律家らしい首尾一貫した説明だろうか。「便利だったからやっただけ」で、日本国憲法の正当性に問題はないが、日本国憲法を成立させた明治憲法改正手続きは成立していない!? 芦部のこの「便宜で適当であった」という「八月革命」の描写は、いったい何を意味しているのか。イデオロギー的に導き出したい結論を導いたかのように見せかけるだけの中身のない装飾だということではないのか。

事実とは異なるが、法理を説明するには便利、というのは、要するに、結論先にありきの状況の中で、都合よく使える方便でしかない、ということだ。普通であれば、そこまであからさまな方便であれば、あまり信用されない。しかし「八月革命」説が際立っているのは、その現実から乖離した内容にもかかわらず、狭義の憲法学界を越えてすら、支持を受けたことだ。

「八月革命」のアイディアを宮沢に示唆したのは、丸山眞男だったと言われる。事の真偽はともかくとして、「八月革命」説は、「護憲派」の強力なイデオロギー的支持を受けた。「八月革命」は、うそと言ってもいいほどの次元のフィクションであったが、イデオロギー的な理由により、かえって熱烈なファンを獲得した。

アメリカの影を拒絶しつつ、憲法を正当化する「八月革命」の含意が、憲法学者には非常に便利に感じられたのだろう。だがそこに、日本の憲法学が、現実の国際社会との接点を見失い、ガラパゴス化していく、大きなわながあった、とも言える。

戦時中は体制迎合、戦後は「護憲派の旗手」

宮沢は、戦時中は体制迎合的な言説を繰り返していた(注7)。宮沢の師である美濃部達吉が1935年「天皇機関説事件」で迫害されている時期、宮沢は沈黙していた。それどころか、時局迎合的な言説を繰り返していた。宮沢は、1941年12月8日の日米開戦を、「最近日本でこの日くらい全国民を緊張させ、感激させ、そしてまた歓喜させた日はなかろう」という気持ちで迎えた。「とうとうやりましたな、……来るべきものがつひに来たといふ感じが梅雨明けのやうな明朗さをもたらした……。この瞬間、全国の日本人といふ日本人はその体内に同じ日本人の血が強く脈打つていることを改めてはつきりと意識したに相違ない。……それから息を継ぐひまもなく、相次ぐ戦勝の知らせである。……気の小さい者にはあまりにも強すぎる喜びの種であつた」などと描写していた(注8)