金正男氏暗殺事件の背景

北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の異母兄であった金正男氏が、マレーシアの空港で東南アジア国籍の女性2人に相次いで襲われ、神経ガスを顔に塗られて殺害されたのは2017年2月のことである。

「金正男は米中央情報局(CIA)への情報提供者だった」と報じた2019年6月10日付の米ウォールストリート・ジャーナル紙によると、この時金正男氏はCIAの担当者と会うためにマレーシアを訪れたのだという。一方、6月11日付の『ニューズウィーク』は、米政府内の情報として「金正男は中国情報機関と密接な関係を有していた」と報じている。一体どちらが正しいのだろうか。

韓国の情報機関によると、金正恩氏は少なくとも2012年ごろから金正男氏の命を狙っていたようだ。それでも長らく正男氏を暗殺できなかったのは、中国の警護チームが常に同氏の周辺に配置されていたためである。

この警護チームは当然、金正男氏が海外に行く時も同行して警護する責任を負っていた(英『フィナンシャル・タイムズ』2017年3月2日)。だが不思議なことに、金正男氏が暗殺された時、その周囲に警護チームの姿はなかった。さらに興味深いことに、この暗殺事件について、当時北朝鮮との関係が悪化していた中国・習近平政権は、なぜかほとんど何も言わなかった。長年、みずからが警護してきた重要人物が白昼堂々と殺害されたのに、メンツを重んじるはずの中国の沈黙はあまりに不可思議であった。

これに対し、産経新聞の元北京特派員である矢板明夫編集委員は、「暗殺情報を知りながら、中国が北朝鮮との関係修復のため正男氏を見捨てた可能性さえ否定できない」(『産経新聞』2017年2月16日)と指摘しており、前述の『フィナンシャル・タイムズ』に至っては、中国がわざと北朝鮮に金正男氏暗殺をそそのかした可能性もあるとさえ示唆している。

そもそもなぜ、習近平政権が金正男氏を保護していたのか。金正恩体制が崩壊した(あるいはさせる?)場合、ただちに中国の息のかかった金王朝の人間を送り込み、北朝鮮を中国の傀儡国家とする必要があったからだ。そうすることで中国は38度線における南北対立を維持し、在韓米軍を中朝国境に近づけないようにできる。

このことは金正恩氏も当然理解していたであろうし、それゆえに習近平政権への警戒心を強く持っていた。その証拠に、北朝鮮は過去に習近平政権に対し、金正男氏の身柄引き渡しを要請している(中国側はこれを断った)。