弟の逮捕で美空ひばり本人が紅白不出場に
不祥事とはやや異なるが、1972年に歌手・美空ひばりの弟が暴力行為で検挙、翌年には賭博容疑で逮捕され、ひばりの公演が全国各地の公共施設から次々に締め出された。公演の出演者の一人として弟が名を連ねていたのがその理由だが、やがて弟とは関係のないひばり個人のテレビ出演にも影響がおよび、1973年末のNHKの紅白歌合戦は不出場となる。
ひばりの弟の検挙・逮捕には、当時、警察庁が暴力追放キャンペーンの一環として、芸能人や興業関係者に対し、暴力団との関係を絶つよう指導を行っていたという背景があった(本田靖春『戦後 美空ひばりとその時代』講談社)。
その後も、不祥事で芸能人が活動を自粛する事態はたびたび起こった。1976年には、ある歌手が愛人を殺害した事件を受け、レコード会社が彼のレコードを回収し、廃盤にしている。ただし、本人が活動をとりやめるだけでなく、その作品にまで措置がとられるケースは当時としては異例だった。
1977年に、大麻事件で歌手などがあいついで摘発されたときには、ある歌手のレコードがヒットチャートで急上昇したということもあったらしい。ただし、テレビやラジオでは、有罪が確定した歌手については当分のあいだ出演はもちろん、レコードもかけないとの方針がとられた(『女性セブン』1977年11月10日号)。
「テレビ局側がまだまだ商売になると判断したから」
もっとも、自粛期間はケースによってまちまちであった。先の大麻事件では、処分は同じ起訴猶予でも、半年足らずで復帰した者もいれば1年かかった者もいた。
1981年には、当時の人気グループ、ザ・ドリフターズのメンバーが賭博で摘発されたが、1カ月の謹慎で復帰した。このとき、ある雑誌が「芸能人 罪はいつどうして許されるのか?」と題する記事を掲載している(『新鮮』1981年5月号)。記事中には、ある芸能プロのマネージャーの発言として、《ドリフの復帰が早かったのは、彼らの人気は今がピークだし、テレビ局側もまだまだ商売になると判断したからですよ》とのコメントが出てくる。
「復帰が早かったのは、テレビ局側がまだまだ商売になると判断したから」とは、何ともミもフタもない。しかしこの指摘が核心を突いていたことは、それから5年後、1986年12月に起こったビートたけしによるフライデー事件後の、テレビ各局の対応が図らずも証明する。
これは、ビートたけしが写真週刊誌『フライデー』の取材姿勢に抗議して、1986年12月9日未明、弟子のたけし軍団のメンバー11人を率いて同誌編集部で暴行を働き、傷害の現行犯で逮捕されたという事件だ。この事件のあと、テレビ局の対応は一転二転する。