「フライデー事件」ではビートたけしの出演番組はほぼ続行

事件の翌日には、所属事務所がたけしを当分のあいだ芸能活動も発言も自粛させると発表した。だが、テレビ各局はたけし出演の番組続行の意向を早々に表明し、すでに収録した番組については、収録日をテロップで明示したうえ、あいついで放送する。

結局、放送が中止されたのは、事件当日の再放送分などごく一部にとどまった。テレビ各局には、逮捕されたら出演を辞退してもらうという基準があるなか、異例の対処といえる。

フライデー事件直後のテレビ各局の対応をまとめた新聞記事(『朝日新聞』1986年12月15日付夕刊)では、在京民放各局の編成部長のコメントが掲載され、ある局の部長は《たけしの行為には問題はあるが、フライデー側にも行き過ぎがあると考えている。たけし側も反省しているようだし、警察や世論にも、たけしに対して同情的な面もあるなど、各方面の情報を総合して判断した》と、番組続行の理由を説明した。

また別の局の部長は《今回は社会的にも、ある程度許容される部分もあるのではないか》と述べている。一方で、同じ記事では、あるテレビ局の幹部が「年末年始のたけしの出演番組は民放各社合計すると30本近くあり、すでに各局とも番組をスポンサーに売っているので、番組がつぶれた場合は大きなダメージになる」と説明し、テレビ界におけるたけしの存在の重さをうかがわせた。

事件6日後の番組収録に参加するも、結局「半年謹慎」に

たけしの復帰も早く、事件から6日後の12月15日から番組の収録に参加した。この日、番組収録を行った日本テレビはその理由を、本人が現場に現れたので「事実上、謹慎を解いたもの」と判断した、と説明した(『朝日新聞』1986年12月16日付)。だが、これに対し批判が強まる。そのなかで当のたけしは同月17日から5日間、体の不調を理由に収録を休む。22日には、収録の再開を前に事件後初の記者会見を行った。

この会見中、復帰が早いとの声もあるがとの質問に、《ボクはしばらくの間、謹慎だと思ってましたが、局の要請もあったし、事務所サイドでもいろいろあわてふためいたので、どっちがどういう結果になるか分からないけれども、ビデオ撮りぐらいはやろうかなと思いました》と答えている(筑紫哲也監修『たけし事件 怒りと響き』太田出版)。

しかしこの発言は、テレビ局側の「本人が謹慎を解いたので出演させる」という発言と大きく食い違った。記者会見の翌日、フジテレビが一転してたけしの出演番組の収録と放送を当面のあいだ見合わせると発表。「捜査当局の処分が決まらない段階で出演するのは妥当ではない」というのが、その理由とされた(『朝日新聞』1986年12月24日付)。

これを受けてNHKを含む各局も追随する(ただしTBSはすでに収録した番組は放送する意向を示す)。こうしてたけしは、1987年6月、東京地裁で懲役6カ月・執行猶予2年の判決が下った直後に活動を再開するまで、半年にわたって謹慎することになる。