従来、アスリートの心理を表す言葉としては「フロー」や「ゾーン」が注目されてきた。
「フロー」は、アメリカの心理学者チクセントミハイが提唱している、最高のパフォーマンスを発揮できる心の状態である。今やっていることに集中する。しかし、緊張はしていない。むしろリラックスしているくらいの気持ちだ。
「フロー」にいると、人は時間が経過するのを忘れる。また、目の前の課題をこなすこと自体が喜びとなり、報酬となる。そのような心の状態になったときに、自分の最高の実力を出し切ることができるのである。
一方、「ゾーン」は、「フロー」の一形態ではあるが、さらに集中度が高まって、ある種奇跡的な領域にまで達した状態である。「フロー」は日々の練習や試合で、ある程度の歩留まりで達成することができるが、「ゾーン」は、アスリートの全キャリアの中でも2、3度しか達成できない境地である。
長野五輪のスピードスケート男子500メートルで金メダルを獲得した清水宏保選手に、ご自身が体験した「ゾーン」についてお伺いしたことがある。清水選手によると、氷の上に自分が滑るべき軌跡が光の線になって見えたのだという。
清水選手が経験したような「ゾーン」は、「フロー」の中でも特別なものである。練習を重ね、プレッシャーの中で集中しているがリラックスしている状態をキープしていると、あるときにスポーツの神さまがご褒美のように与えてくれる特別な状態だと言うことができるだろう。
大坂なおみ選手の「内なる平和」は、「フロー」や「ゾーン」とは異なるアプローチからの、アスリートが目指すべき究極の境地を表す言葉として大変興味深い。
「フロー」や「ゾーン」に入ることを邪魔するものとして、環境からのノイズや、余計な雑念が挙げられる。
そして、逆説的だが「やる気」とか「目的意識」も、余計な雑念になりうる。「がんばろう」とか、「絶対に勝とう」といった動機づけは、励みになると同時に、最高のパフォーマンスの邪魔をすることにもなりかねない。心や体に余計な力が入ってしまうのだ。
大坂なおみ選手の「内なる平和」は、禅における「無」の心に近いのかもしれない。テニスの大舞台でそのようなことが語られる「新時代」が訪れようとしている。