会社が500人規模の希望退職者を募った際、私も組合員に説明する役割を担いました。そのとき、希望退職に応じた50歳近いある先輩社員に、「声の大きい人間ばかりでなく、真面目に長年働いてきたのに黙って辞めていく人たちの言い分も汲み取ってほしい」と言われ、強く心に残ったのです。
とはいえ若かったせいか、そのときは意味がいま一つ理解できなかったのですが、それから5年ほどして部長職に就いたとき、声なき声の大切さが身にしみるようになりました。人間の集団とは不思議なもので、必ず全体の2割くらいのメンバーは自分の意見を表明しなくなるのです。しかし、そうした声を上げない人たちの気持ちを汲まなければ、組織をうまく運営することができないことに気がつき、経営のトップとなったいまだからこそ、「声なき声」のことをより強く意識するようになっているのです。
また経営のトップは、社会の変化の兆しを読み取る「先見力」、経営方針を決める「決断力」、そして、衆知を集めて経営目標を達成する「実行力」を備えているべきだと、私は考えます。とはいえ、常に正しい答えを導き出し、的確なディシジョンを行うのは、至難の業といえるでしょう。
そこで、人から信頼を得られる「人物」であること、経営者にふさわしい「力量」があること、経営を成功させた「実績」があることという資質も求められます。そうした条件を満たしていれば、事業撤退のように先行きの不透明な、苦難の伴うディシジョンを実行するときでも、ステークホルダーは結論を受け入れ、トップについてきてくれるようになるのです。
もう1つ、難しいディシジョンを実行するときのカギが、いわば「無言のコミュニケーション」。常に現場で顔を合わせ、相手の声なき声を聴き取っていれば、お互いの気心が知れ、心理的な距離が縮まります。そうした人間関係が構築できていれば、イザというときにすべてを説明しなくても、ステークホルダーはトップの考えや心情を察し、支持してくれるでしょう。
覚悟があってこそ、トップの言葉は言霊となる
アサヒグループHD 代表取締役社長兼CEO
1951年生まれ。75年青山学院大学卒業後、アサヒビールに入社。人事戦略部長、執行役員飲料事業担当などを経て、2011年アサヒグループHD取締役兼アサヒビール代表取締役社長に。16年アサヒグループHD代表取締役社長兼COO、18年より現職。