打倒塩路“ゲリラ戦”が本格化
想定外の進展に危機感を抱いた塩路一郎は、翌1983年夏、記者会見を開いて「英国進出計画反対」を表明し、ストライキ決行をほのめかすという前例のない行動に出た。さらには、旧知の中曽根康弘首相(当時)にも会い、「(計画推進に)政治的圧力をかけないように」とクギを刺すなど、各界への影響力を駆使して画策に注力し始めた。
英国進出計画は、日産が経営の独自性をとり戻せるかどうかの試金石であり、もし、失敗に終わり、石原社長が退陣を余儀なくされたら、日産は未来永劫、正常な会社の姿をとり戻すことはできない。
石原政権に最大の危機が到来したと読んだ私は同志とともに、打倒塩路体制のゲリラ戦を本格化させる決断をした。
「怪文書作戦」で社員に実態を明かす
ゲリラ戦の第1弾は「怪文書作戦」だった。塩路一郎が自らの権力欲のために、経営を蹂躙している実態を明らかにし、立ち上がることを促す檄文(げきぶん)を、「日産係長会・組長会有志」の名前で社員1人ひとりに秘密裏に配布する。
本社および全国7カ所の工場で働く社員の寮・社宅のうち、東京近郊については、われわれが配布当日の未明に手分けして出かけ、集合郵便受けに1戸ずつ直接投函する。
遠方については郵送することにしたが、投函する場所も、労組の裏部隊によって消印から投函者が探られないよう、ゲリラ部隊のメンバーの親戚宅宛てに文書をまとめて小包で送り、投函を依頼するなどして陽動作戦をとった。宛名書きも筆跡がわからないよう、メンバーの奥さんなどにお願いした。
塩路一郎の異例の記者会見の翌々月に配布された怪文書は社内に大反響を巻き起こした。労組の目が光る職場ではおおっぴらには話題にできないが、職場を離れると、そこかしこで社員たちは檄文について語り合った。