「ヨットの女」を探して銀座のクラブへ
怪文書作戦を進める一方で、私は第2弾として、単独である作戦を遂行していた。塩路一郎の最大の弱点である「女性スキャンダル」をあばく。趣味のヨットで愛人のホステスと一緒にクルージングに出る現場を撮影し、写真週刊誌「フォーカス(FOCUS)」で発表する計画だった。
私は毎週末、佐島マリーナで自ら張り込み、ついに現場を押さえるとフォーカス編集部の協力を得て撮影に成功した。
ただ、塩路本人からは「ヨットの女性」を「娘の友だち」といい逃れされる可能性があった。ならば、愛人のホステスを探し出すしかない。私は毎日夕方、退社後、銀座の街角に立って探し続けた。
これはと思うクラブに次々と客を装って入り、店内を探る。銀座のホステスは何千人もいる。来る日も来る日も探索を続けながらも、どうしても見つからない。諦めかけていたとき、まったくの偶然から、知人に誘われて入ったあるクラブで「ヨットの女性」と遭遇した。それは奇跡に近かった。
すぐにフォーカス編集部に連絡。記者が問いつめ、塩路一郎の愛人であることを認めさせた。
翌1984年1月、フォーカスの女性スキャンダル報道は一大センセーションを巻き起こした。形勢不利とみた塩路側も英国進出問題について、いったん矛を収め、無条件で受け入れた。
“七人の侍”で挑んだ組織戦
しかし、一撃を与えることはできたが、塩路一郎を失脚に追い込むまではできなかった。
これからは、塩路労組に会社が組織として真正面から挑む戦いが必要になる。そう判断した私は石原社長に直談判し、組織戦の開始の承諾を得た。そして、「影の司令部隊」として、人事部門および生産部門に精通した課長たちを選抜し、プロ集団を組織した。人数は7人。それは映画『七人の侍』を思わせた。
戦略は2つあった。1つには、生産現場にいる労組寄りの管理職を更迭しながら、労組との事前協議なしで人事や業務命令を遂行できる体制を整え、人事権や管理権を奪還していく。その一方で同時に、労組の内部に対して塩路体制の専横の不当性を訴え、反塩路勢力を拡大し、内側から崩壊させる。
正面と内部から、2つの戦略は時間をかけながらも、少しずつ成果を上げていき、やがて潮目が変わり始める。その間、われわれ影の司令部隊は、昼は普通のサラリーマンとして仕事をし、夜は労組の裏部隊に察知されないようアジトを転々と変えながら、作戦の立案や修正にあてるという二重生活を続けた。土日は九州など遠方の工場でのオルグ(組織拡大に向けた勧誘行動)に費やされた。
組織戦を開始してから2年目の1986年2月、ついに、現場の中核である組長会および係長会から、「退任要求」が提起されるにいたり、塩路一郎は辞任を表明した。
追い打ちをかけるように、独自に女性スキャンダルを追っていた写真週刊誌「フライデー(FRIDAY)」が別の愛人宅を本人が訪ねる現場を撮影して報道。塩路一郎はすべての役職を辞し、ここに塩路体制は崩壊した。