戦勝国間での戦後処理に関する外交交渉が始まると、アメリカ以外の諸国が、自らも対日占領政策へ関与できるように強く求めてきた。

最初にそのような要望を訴えたのは、対日戦の勝利で一定の貢献をなしたイギリスであった。とりわけイギリスは英連邦の盟主として、日本が再び軍国主義国家として復活することを恐れるオーストラリアやニュージーランドの意向も考慮しなければならなかった。それに続き、ソ連政府と中華民国政府も対日政策への関与を強く要求した。

細谷雄一(著)『戦後史の解放II 自主独立とは何か 前編:敗戦から日本国憲法制定まで』(新潮社)

モスクワ外相理事会での外交交渉の結果として、1945年12月27日の共同声明によって、極東委員会と対日理事会の創設が正式に発表された。極東委員会はワシントンD.C.に設置されて、米英ソ中などの11カ国がそこに参加することになった。これからはこの極東委員会が、対日占領に関する最高意思決定機関となる。

この極東委員会の付託条項によれば、「日本国の憲法構造」における根本的変革を処理するいかなる指令も、「極東委員会における協議を経、かつその合意が達成されたときにのみ、発せられる」と記されている(*2)。すなわち、日本が憲法改正を行う際には、極東委員会の承認が必要となるのである。

これは、ソ連や中国、オーストラリアのような対日強硬派の諸国の意向を、憲法改正に反映させる必要が生じたことを意味する。このような合意を前提として、アメリカ政府は憲法改正問題に対処しなければならない。もはや、天皇の戦争責任を問うことを求めるソ連や中国、オーストラリアの要求を、無視することができなくなってしまった。

明治憲法の「解釈改憲」で済むと思っていた日本側

そのようななかで、どうすれば天皇制を維持できるのか。どのように日本の民主化を進めていけば、天皇制の維持を保証できるのか。それらを考えることもまた、新しい「国のかたち」をつくっていく作業の一環である。とはいえ、幣原首相も政府の中枢にいた関係者の多くも、この時点においてはまだ、国際情勢の変化に伴って天皇制維持が容易ではなくなったという現実を、必ずしも十分に認識できていなかった。彼らは、明治憲法をそのまま用いても、天皇制維持や民主化の実現、平和国家への転換が可能だと考えていたのだ。それはとても連合国にとって受け入れ可能なものではないという認識が完全に欠落していた。