3期目安倍政権で再び高まりそうな改憲論議。だがこれまでの多くの議論は、日本国憲法制定の国際政治史的な文脈を忘れた、あまりにイデオロギー的かつ内向きの議論だったのではないか。国際政治学者の細谷雄一・慶応大学法学部教授は、日本国憲法の制定作業が連合国による戦後処理プロセスのなかで、当時の幣原首相らによって国際協調主義に基づき行われたことを改めて指摘する――。

※本稿は、細谷雄一『戦後史の開放II 自主独立とは何か 前編 敗戦から日本国憲法制定まで』(新潮選書)の一部を再編集したものです。

1946年5月、首相官邸で会見する幣原喜重郎首相(左)と吉田茂外相。国際主義的な考えを持つ幣原も吉田も、皇室を中心に国民が団結しなければ日本の秩序ある再建は望めないという認識を共有していた。(写真=共同通信イメージズ)

9条の「発案者」が考えていたこと

幣原喜重郎の名前は一般的に、戦後の首相として新憲法制定の道筋を付け、とりわけ憲法9条の「発案者」であることによって記憶されている。しかしながら、幣原が何よりも重視したのは、天皇制の維持であった。

天皇制を維持してはじめて、日本は新しい国家として戦後の歴史を歩むことができる。天皇制を失えば、その後に待っているのは混乱と無秩序であろう。幣原は、天皇制維持という目的を達成するための手段として、新憲法制定と戦争放棄条項が必要だと判断したのだ。

1945年秋から1946年春にかけて、国際情勢と日本国内の政治状況は大きく揺れ動いており、天皇制の将来についても不透明性が増していた。

まず、幣原内閣が成立した時期と時を同じくして、GHQは日本政府に政治犯の釈放を命じており、それによって日本共産党の活動が公然と始まった。日本共産党は、天皇制批判を展開するようになり、10月下旬頃からその機関紙「赤旗」等でも断続的に、「天皇制打倒」の主張がなされていた(*1)

天皇制批判がなされていたのは、日本国内だけではなかった。アメリカ国内や中国国内でも、日本の侵略の源泉を天皇制という国家体制に求めて、それゆえに天皇の戦争責任を説いて、天皇制を廃止して戦後に新しい民主的な国家を建設するよう求める声があった。

高齢ながらも首相の重責を引き受けた幣原は、「最後の御奉公」として天皇制を維持することを何よりも大きな目標として設定したのであった。問題は、その目標を達成することが、必ずしも自明でもなければ、容易でもなかったことである。それを可能とするような、何か良い智恵が求められていたのだ。

天皇制維持への国際的な逆風

これらの問題を理解するためには、この時代の日本を取り巻く国際政治と結び付けて考慮することが必要だ。というのも先に述べた通り、国際社会においてこの時期に天皇制維持への逆風が強まっていくからだ。