幣原首相は、10月25日に憲法問題調査委員会を設置した。憲法問題調査委員会には、委員長であり元東京帝大教授の松本烝治国務大臣の下に、宮沢俊義東京帝大教授、清宮四郎東北帝大教授、河村又介九帝大教授、石黒武重枢密院書記官長、楢橋渡法制局長官、入江俊郎法制局第一部長、佐藤達夫法制局第二部長が委員として加わっていた。実質的には、松本烝治と宮沢俊義の2人が中心となって検討作業を進めていたとされる。

松本烝治委員長は、明治憲法を改正する意志をほとんど持っていなかった。松本自らが、この委員会について、「この調査会は学問的な調査研究を主眼とするものであるから、若し改正の要ありといふ結論に達しても直ちに改正案の起草に当るといふことは考へてゐない」と断言している(*3)。松本も宮沢も、戦後日本が再出発する上で、明治憲法をそのまま用いて、憲法解釈を柔軟に変えていくだけで十分に対応できると考えていたのだ。それはあまりにも、当時の国際情勢を無視した、内向きの思考であった。

宮沢の恩師であり、この憲法問題調査委員会の顧問でもあった美濃部達吉はちょうどこの頃に、「朝日新聞」紙上で、「憲法の改正はこれを避けることを切望して止まない」と書き記し、解釈の変更のみで戦後に新国家として再出発できると考えていた。宮沢もまた、美濃部や松本委員長と同様に、憲法改正には反対であった。宮沢は、「憲法の改正を軽々に実施するは不可なり」とこの年の9月の講演で述べている(*4)

明治憲法は、この時代を生きる多くの日本人にとって血であり肉であり、その呪縛は絶大であった。それを根本から改正するという思考は、内側からは湧いてこなかったのだ。そして彼らは、憲法を改正して、認識を改めない限り、天皇制の維持が困難になっているという国際情勢の変化を、ほとんど視野に入れていなかった。日本における憲法規範という、閉じられた宇宙の中で生きていたのだ。

国際情勢の厳しさへの不感症

それはまた、当初の幣原首相の認識でもあった。幣原は組閣間もない頃から、憲法改正について「極めて消極的にして、運用次第にて目的を達す」と考えていた(*5)。11月28日の衆議院演説において、憲法改正の必要性を問う斎藤隆夫の質問を受けた幣原は、それを時期尚早と考えて、次のように答えた。「帝国憲法の条規は弾力性に富むものでありまして、民主主義の発展に妨害を加へることなく(*6)」。