守旧的な幣原の認識が変わるひとつの契機となったのが、1946年1月24日の幣原=マッカーサー会談である。幣原首相自らがマッカーサーに会って、意見交換に臨むことになった。幣原の関心は、天皇制の維持であった。幣原は、「どうしても天皇制を維持させておいてほしいと思うが協力してくれるか」と尋ねると、マッカーサーは「出来る限り協力したい」と応えた(*7)

この会談について、服部龍二は、「総じていうなら、幣原とマッカーサーが最重視したのは天皇制の存続であった」と論じる。そして、「戦争放棄を『ハツキリと世界に声明する事』は、その手段として位置づけられた」と述べる。というのも「戦争放棄を宣言することで、天皇制に批判的な国際世論を懐柔せねばならない」からであった(*8)

戦争放棄条項の真の提案者は「A級戦犯」の一人だった

それでは実際のところ、憲法9条の戦争放棄条項についての提案は誰が行ったのだろうか。それは、マッカーサーの回顧録に書かれているように、幣原が最初に述べたのか。あるいはマッカーサーの提案なのか。当初は憲法改正の必要を感じていなかった幣原は、戦争放棄の問題をどのように考えていたのか。この点について、服部が新しい事実を紹介している。

服部は、このような幣原の戦争放棄に関する理念の出所を、元外交官でイタリア大使であった白鳥敏夫に求めている。白鳥がA級戦犯として東京裁判で有罪となったことを考慮すれば、これは実に皮肉なめぐり合わせであった。白鳥は、1945年12月10日付で、吉田茂外相に対して英文の書簡を送っている。そのなかで白鳥は、「憲法史上全く新機軸を出すもの」として、「天皇に関する条章と不戦条項とを密接不可離に結びつけ」るべきだと記していた。いわば、天皇制を守るために、戦争放棄を憲法に盛り込むという発想であった(*9)

この書簡自体はGHQに検閲の末にしばらく接収されていたが、同様の内容を白鳥は直接吉田に伝えている。そして、同じ内容が書かれた書簡を接収が解除になってから渡された吉田は、その書簡を幣原に渡している。すなわち、吉田外相経由で、このような白鳥の戦争放棄論が幣原に伝わっている可能性が高い(*10)。そうだとすれば、幣原による戦争放棄条項の提案の出所は、白鳥ということになろう。

ちなみに白鳥は外交官として、1928年8月にパリで調印された不戦条約、すなわちケロッグ=ブリアン条約の調印式に、内田康哉全権代表の随員として参加している(*11)。白鳥はこの不戦条約の理念を想起して、かつて外務省の同僚であった吉田外相さらには幣原首相にそのような理念を伝えて、それによって天皇制が維持できるという方法を伝えたのだろう。