「赤ちゃん」のようなナチュラルな坐り方を

実は、こうした仏教のとらえ方は、まだ一般的ではありません。私は死者の供養が主流の仏教を「仏教1.0」、自分の問題解決のためのテクニック的仏教を「仏教2.0」と呼び、この2つを乗り越えようとする仏教として「仏教3.0」という概念を提唱しています。仏教にもアップデートが必要なのです。私は曹洞宗の僧侶ですから、伝統的仏教を否定するわけではありません。しかし、そこには現代のわれわれにとって不十分な点があると感じています。

坐禅のためには、リラックスできる安全で静かなスペースが必要です。曹洞宗の開祖道元も夏は涼しく、冬は暖かくして、食べ過ぎたり、お腹がすき過ぎたり、寝不足でないように環境と自分をちゃんと準備してから坐りなさいと言っています。

理想の鋳型に自分をはめ込んで坐禅をしようとすると、必然的に緊張や力みが生じて、強制や拘束による他律的な坐禅になってしまいます。私の坐禅会では、まず身体と心をじっくりとほぐして、自ずから楽に坐れるような条件を整えていきます。赤ちゃんは無心で坐っているのに自然に背筋が伸びて、身体の軸と重心のバランスが取れています。そういうナチュラルな坐り方が大人でもできないかということをいろいろな仕方で探っています。

自分を「許す」ことで「怒り」から抜け出す

坐禅は生きているからだで行う行法です。私は「坐禅は止まるという運動をしている」と説明することがあります。動き回れないように脚を組み、何もいじれないように手を組む。口を閉じて言葉を発さず、脳を働かせて過去や未来に思いを馳せることをやめる。そういった人間らしい能力のすべてを一時的に保留状態にします。そのときには自分の名前は要りません。性別や年齢も関係ないし、他人との世間的なやり取りもない。坐禅によって、人間的な生活が始まる以前の、原初的ないのちのあり方に還るわけです。

もし坐禅を組んでいるときに怒りがわき起こったとしても、その怒りは坐禅の中の一つの風景です。怒りというエネルギーの存在には気づいているけれども、それに対してリアクションは起こしていません。いつもはすぐにリアクションを起こして、手や足や口を動かしているうちに、感情にのみこまれてしまいます。でも坐禅をしていると怒りのプロセスがよく見えてきます。なるほど、怒りとは、こんなふうに起きて、こう消えていくのか、と。

怒りがコントロールできないと悩んでいる人は、穏やかな自分になれないことが不満なのです。理想とする「穏やかな自分」が現実の「怒りっぽい自分」に怒っている。怒りで怒りを止めることは無理です。怒りもすれば、喜びもするのが人間ですし、どんなに怒りっぽい人でも、四六時中怒っているわけではないでしょう。自分を許すところからしか、怒りのサイクルを出ることはできません。

仏教では、あらゆるものが縁起(えんぎ)<つながり>の中にあると考えます。怒りという現象もそうした縁起というネットワークの中での出来事として正しく理解する必要があります。そこから自ずと適切な解決策が生まれるでしょう。坐禅は、縁起という事実をありのままに観る稽古なのです。怒りをきっかけにしてこうした仏教の智慧と実践をぜひ試してみてください。

【スマホも仏教も「アップデート」する時代】
1.0●形骸化した仏教⇒死者の供養が主流の仏教
2.0●法・テクニックとしての仏教⇒自分の問題解決を目指す仏教
3.0●ラジカルな「本来の仏教」⇒1.0と2.0を乗り越える

【藤田さんがすすめる「坐禅」の3ポイント】
1. まずは仲間を探す
一人ではなかなか坐れない。坐る仲間を見つけ、習慣にするといい。坐禅会が最適。
2. 赤ちゃんみたいに坐る
無理はしない。脚は無理には組まなくてもいい。赤ちゃんのように力みやはからいをなくす。
3. つながり(縁起)を感じる
仏教はつながりの中に自分がいると考える。音、光、呼吸、身体感覚など内外を感じながら坐る。

僧侶 藤田一照(ふじた・いっしょう)
1954年生まれ。東京大学大学院発達心理学専攻博士課程を中途退学し、曹洞宗僧侶となる。87年渡米し、禅の指導、普及に従事。2005年に帰国。現在、曹洞宗国際センター所長。著書に『現代坐禅講義』(佼成出版社)がある。
(構成=山川 徹 撮影=永井 浩)
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