俳句は「日常観察」と「視点」の面白さ
熟読してほしいのが百句の評釈。この場所にはこの語句しかないという芭蕉の妥協なき言葉との格闘に学んでほしい。有名すぎる古池や~の句に対しては、語釈をあえてせず、クールジャパンの具にされた文学史上他に例を見ない不幸な作品という見解には思わず目からうろこが落ちた。侘び寂びの代表句と教わったが、ほんとにそうだろうか。蛙は春の季語である。だったら、元気な殿様蛙だとバシャーンと大きな音がして当たり前。それこそ、生命力が目覚める春にふさわしい……。と、こんなことを思わず連想してしまった。
次は蕪村である。江戸中期の俳人で、いま国宝になっている文人画、絵画を遺した超一流の絵師でもある。その句は、絵画的であり、スケール感に満ち、のびのびと清らかで明瞭である。夏井「毒舌」先生が最重要視する映像喚起力のお手本のような句がいっぱいある。
菜の花や月は東に日は西に
春の海終日のたりのたりかな
遅き日のつもりて遠きむかし哉
夏河を越すうれしさよ手に草履
これきりに径尽たり芹の中
さみだれや大河を前に家二軒
月天心貧しき町を通りけり
こがらしや何に世わたる家五軒
ジョン・レノンではないがイマジンしてみると、どれもクッキリと映像とドラマが生まれてくる。語釈は芥川賞作家の辻原登。
そして最後が、江戸後期の俳人、一茶。語釈は俳人の長谷川櫂。何より一茶は、わかりやすい。芭蕉と蕪村は、和歌や漢詩の知識があった方が、より味わい深く鑑賞できるのに比べ、古典の知識ゼロで、そのまんま味わえる。あくまでも関心は自分にしかなく、俗っぽく、すぐそこにいるオッサンのようだ。
小便の身ぶるひ笑へきりぎりす
足元へいつ来りしよ蝸牛
梅干と皺くらべせんはつ時雨
白魚のどつと生るるおぼろ哉
名月の御覧の通り屑家哉
雪とけて村一ぱいの子ども哉
俳句とは「日常観察」と「視点」の面白さに尽きる。われわれは何もない日常とつい言ってしまうが、一茶のように意識して半径1メーターを見回すと、変化と不思議に満ち溢れているはずだ。日常の変化すらまともに感受できていないのに、何が時代や世界の動きだ。見ているようで何も見ていないという現実。さあ、そんな日常感度オフ状態を解除してみよう。