お客に戒められた仙台時代の体験
67年4月、野村証券に入社。研修後、仙台支店に配属される。ここで、いまも忘れられないお客と出会う。日本三景の松島で旅館と土産物店をしていた人で、「株はやるな」が家訓だった。でも、手紙を出すと会ってくれ、資金の何倍も売買できる信用取引を始めてくれた。やがて静岡への異動の内示がきたとき、3億6000万円の資金が、3年で1000万円を割り込んでいた。
「このまま、静岡へいくわけにはいかない」。そう考え、会って「会社を辞めて、旅館かお店を手伝います」と申し出た。だが、「そんなことはしなくていい」と一蹴される。そして「でも、ひとこと言っておきたい。こんな営業を続けていると、あんたは大変なことになるよ」と諭された。手数料稼ぎに、値動きがあるたびにお客に売買させる「回転商い」を戒められ、「このままでは、いけない。もっと、まっとうな証券マンにならなければ」と痛感する。
もっと、普段からお客を開拓し、広げる努力をしなければいけない。そうすれば、売買の回転を速めなくても、取引量は増える。そんな当たり前のことに気づき、猛省した。
静岡で新人の教官役を務めた後、本社で職員部、引受部、秘書室を歴任する。職員部では、新しい年金制度の仕組みづくりを受け持ち、労使交渉の末席にも加わった。引受部は企業の資金調達を手伝う部門で、その経験がロンドン勤務で役に立つ。秘書室では「野村のドン(首領)」と言われた田淵節也社長の秘書を務めた。ここで、さらに「当たり前のようで、なかなかできないこと」を次々に学んだが、次号で触れる。